ふたりだけのアクアリウム
『それは……とても助かる。そのまま持っててもらえる?帰社したら受け取るから』
電話の向こうで、沖田さんがどんな顔をしているのか想像出来なかった。
だけど、素直に言葉を受け止める。
「助かる」っていう言葉は、きっと彼の本音だと。
「はい。待ってます」
『ありがとう』
彼のお礼の言葉を最後に、電話は切れた。
真っ暗になったスマホの画面をしばらく見つめた後、クリアファイルを再び抱くようにして会社に入ろうと身を翻した。
そこで、ドアの陰に誰かがいることに気がついた。
ドクンッと胸が跳ねる。
私よりも背の高い、スーツ姿のその人がゆっくりとこちらを振り返る。
━━━━━よりによって、綱本係長だった。
目を丸くして、事態に追いつけない頭でこの状況を考える。
そして振り返った係長の口元に笑みが浮かんでいるのを見て、理解した。
電話の内容を聞かれた。
「お疲れ様です」
簡単に挨拶して駆け抜けるように係長の横をすり抜けようとしたら、がっしり右腕を掴まれて止められてしまった。
「待ちなさい、君」
「ちょっと急いでますので……」
「今電話をしていた相手は誰だ?」
ニヤリと、嘘くさい笑顔を向けてきた係長の目の奥に、卑しい人間の陰険さみたいなものを感じ取った。
電話の相手なんて分かってるくせに。
掴まれた腕を離そうともがいた。
「仕事には関係の無い電話です。サボっていたとおっしゃるならそれなりの処分はしていただいて結構です」
「生意気な女だな。どこの部署だ?」
それを聞いて呆れた。
私のことなんて名前はおろか事務員であることも知らなかったらしい。
同じ事務所で働いておきながら、人としてどうなんだろう。
「事務の佐伯です」
早口で答えると、課長の空いている腕が伸びてきた。
クリアファイルを持っている私の手を狙っているのは明らかだった。