memory refusal,memory violence
序章:送葉への手紙

受け入れられない別れ

 大学に入り三年目になろうという春休校の終盤。四月四日。送(そう)葉(は)は死んだ。

 交通事故という何処にでもある、突然の別れ。ただ、それは広い世界に視野を広げた場合の話であって、僕というちっぽけな世界では、どれだけ時間が経っても到底受け入れることはできないらしい。

 送葉の唐突過ぎる死の知らせを、電話越しに泣きじゃくる送葉の友達から聞いた時は、悪い冗談だと憤り、怒り交じりの失笑をした。彼女の友達、綾香が「ごめん、ごめん、ごめんなさい」と何度も謝る声は、役者顔負けの演技だと思った。実際そんなものだろう。いや、実際そんなものだったのだ。信じられるはずがないのだから。

 僕が頭で送葉の死をやっと理解したのは、霊安室の簡易ベッドで横たわる傷だらけの送葉を見た時だった。痛々しいその姿と、その姿にアンマッチな送葉の表情はいつでも鮮明に思い出せる。ただ、ダメなのだ。頭では理解していて、どうにかして受け入れようとしても胸の痛みがそれを拒絶する。

 通夜が終わり、葬儀が終わり、送葉が灰となっても僕の彼女への執着は何も変わらない。僕は未だに送葉は生きているのではないかとどこかで思っている。馬鹿らしいと自嘲しようとしてみても上手く笑えなかった。

 送葉は聡明な学生だった。心理学、精神学、脳科学といった研究に多くの時間を費やし、充分すぎる成果を残していても、さらにそれを追及するために研究を繰り返す。文学部である僕には彼女の凄さを感じる機会があまりなかったのだが、同じ庭に立つ者の中では、彼女の事を『天才』と呼ぶ人もいたらしい。そんな彼女の才能に羨望の眼差しを向ける者もいれば、嫉妬する者も少なくなかったと聞く。それでも彼女は尊敬も嫉妬も気に留めず、ましてや俯瞰するでもなく、研究を続ける。研究の虫だったのだ。

 そんな彼女は、研究の間にできたわずかな時間を僕とのデートや、多くはない友達との遊びにあてているという生活スタイルで、彼氏である僕でさえ、彼女の中心になったという実感を持つことはなかったけれど、それでも構わなかった。思い返せば、彼女とどこか遠くへ旅行に行ったり、なにかロマンチックな景色を見に行ったり、デートらしいデートをした記憶はない。だが、そんなものに助長されなくても、彼女と一緒に居られる時間はどこまでも愛おしく感じた。

 できることなら永遠に研究室に籠っていたいと言いかねない程の彼女との出会いは大学入学直後に行われたテニスサークルの新歓コンパだった。僕も送葉も入学してすぐにできた友達に無理やり付き合わされる形でこの新歓コンパに参加し、結局、お互いにテニスサークルには入ることはなかったのだが、彼女との出会いはその時だった。この新歓コンパがなければ大学が一緒というだけで、それ以外では学部など全く関わりがない僕と送葉は出会えていなかっただろう。広大な敷地で尚且つ学部が違うとくれば、すれ違うことさえなかったかもしれない。

 最初に話しかけてきたのは送葉だった。入る気のないサークルの、賑やな宴会の雰囲気に馴染めず、大部屋の隅でちびちびと人生初の酒に少しの罪悪感と高揚、そして自分は酒に弱いという事実に落胆しながら飲んでいると、「新入生ですか?」と言って僕の横にちょこんと座ってきたのだ。流れるような黒髪。白皙(はくせき)な肌。なんでも見透かしてしまいそうほどの透き通っている綺麗な瞳、右側の涙袋にある二つの小さなほくろ。はじめてみた時から送葉は恵まれた顔立ちをしていると思った。質問に対する返事をせずに数秒間見惚れていたのを覚えている。きっと整っている顔立ちも嫉妬を助長する一因だったのだろう。それくらい送葉の容姿は周りと逸脱しているように感じた。

 新入生かという問いに少し遅れて「はい」と答えると「運命を信じますか?」と送葉は言った。僕が「いきなり何ですか……」と言うと、送葉は「あなたは運命を信じますか?」と繰り返した。「いい意味であれば……あってもいいと思いますよ」と僕が答えると、送葉は「私、お酒はたぶん……飲んでませんよね?」と首を傾げ、笑った。きっと酔っていたのだろう。

 全く噛み合わない、しどろもどろな会話に最初は戸惑った。

 ただ、戸惑いつつも、彼女以外に話す相手もいなかったので、会話になっていない会話を続けていると、徐々に会話は整ってきた。それがどこか心地よく感じた。

 それから僕と送葉はたびたび二人で会うようになり、知り合って一年後、雲一つない蒼穹の日に、大学の中庭に送葉を呼び出し、僕からの告白で晴れて付き合うこととなった。今思えば、僕にしてはかなり大胆な告白だったと思う。それに、研究の虫である彼女が僕の告白に了承してくれたのか、今思えば疑問だ。しかし、それを確かめることはもうできない。

 付き合い始めた当初は彼女も座学が中心であり、時間もそれなりにあったはずなのだが、送葉はいつもやることがあると言って遠くへ出かけることは断られ続けた。何をやっているのかと何度か訊いてはみたが、返答は毎度「秘密の実験です」の一言で、どれだけ追及しても教えてはくれなかった。だが、彼女の僕に対する扱いや、彼女がいう秘密の実験というものに、一抹の不安を抱えることがあっても、やはり彼女といるわずかな時間は愛おしく、僕はそれで満足だった。

 そしてある時、近所の喫茶店、『たより』でコーヒーを飲んでいる時、送葉が急に「今やっている研究がそろそろ大詰めなので、それが片付いたらどこか遠くに行きましょう」と言ったので「それは本気で言ってるの?」と驚きながら訊いたら「本気です。県外でも海外でも宇宙でも」と言ったので僕は内心で歓喜した。なんだかんだ言って送葉とそういったデートらしいデートがしたかったのだ。僕は、ならば計画は早めに立てた方が良いと送葉にいつにするか訊いた。「来世くらいでしょうか? 先があまり長くないので」と珍しく冗談を言った送葉に「笑えない」と窘(たしな)めた。約束はもう来世でないと叶えられそうにない。
 
 送葉が交通事故で死んでしまったのはそんな約束をした矢先だった。

 彼女がこの世からいなくなってからというもの、大学には通っているものの、何に関してもやる気が起きなくなってしまった。講義もレポートも全く身が入らない。僕に気を遣っていろいろと企画してくれた友達の誘いにも行く気になれなかった。いつの間にか送葉は僕の中で大きなバイタリティーになっていたのだとその時になって気付いた。僕の中心が送葉なのに対し、送葉の中心が研究だったことに、今さら寂しいと感じる。彼女の中心になりたいと今でも思う。そんなことを思ってしまうあたり、僕はまだ送葉の死をどこかで疑っているらしい。
< 1 / 54 >

この作品のキーワード

この作品をシェア

pagetop