memory refusal,memory violence
絵
僕が乃風さんに連れられて来たところは講義の他に大学の文化サークルが併用する校舎の一室だった。乃風さんは電車通学のため、大学までは僕が車で運転した。
大学は夜でも学生や教授の出入りがあるため、開けっ放しにしてあることも多い。実際にここに来る途中にも明かりのついた部屋は数多くあった。
乃風さんが何故この部屋を選択したのかはまだわからない。車の中でも、車から降りてここに来るまでも、乃風さんは『あの絵』に触れようとしなかった。
「適当に座って」
乃風さんに促され、言われたままに適当な椅子に座る。
夜になり、日差しがないためか、いつもと雰囲気が違うように感じるが、ここは僕も乃風さんの絵を見るために一度だけ来たことがある。絵画サークルの拠点だ。あまり講義で使うことがないらしく、部屋を見渡すと机は畳まれて部屋の隅に置かれていたり、書きかけのキャンバスが出しっぱなしだったりと講義室というよりも絵画サークルの部屋と化している。
乃風さんは二つの紙コップにインスタントコーヒーの粉を入れると、保温されっぱなしだったポットのお湯を注いで片方を僕に渡し、自分も僕の近くに置いてある適当な椅子に座る。
「さて」
乃風さんがコーヒーを一口含んで言う。やっと教えてもらえる。僕はバイトをしている時から今までずっと焦らされているようで落ち着かなかった。
「これから私が話すことにきっと文元君は驚くわ」
僕が驚くこと? 何だろう。見当がつかない。
「そして、悩むことになるかもしれない」
僕が悩むこと。もっとわからない。でも、僕が悩むのだとしても、それは今の僕にとってはきっと些末事(さまつごと)だろう。送葉が死んだと伝えられた時以上に驚くことも悩むことも想像できない。
覚悟して聞くことでもないだろう。そう楽観視した僕は、隣の椅子に紙コップを置いて「何ですか?」と訊いた。
「御状さん」
「――え」
乃風さんが一人の名前を口にしただけでたった一文字を声に出すだけに数秒かかった。まさか、まさかここでこの名前を聞くことになるとは思わなかった。
「君の彼女だった御状送葉さんの話を今からしようと私は思うのだけど、やっぱり驚いたかしら?」
「……はい」
まだ乃風さんの話は始まったばかりだ。だけど、僕の頭の中はよく分からない何かでいっぱいになり、何か言葉にしようとすれば自然と言葉は遅れて出てきた。『彼女だった』と言われたことに気づきはしたが、気にする余裕は全くなかった。
「大丈夫?」
僕の余裕が一気になくなったのを察してか、乃風さんは僕の心配をしてくれる。
「あ、えっと……はい、大丈夫です。乃風さんから彼女の名前が出てくるとは思ってなかったので驚いただけです。いやぁ、見事に驚かされました」
あからさまに驚き、強がって見せる。こうでもしないときっと僕の顔は酷く情けなく、滑稽なものになってしまう。名前が出てきただけだ。思いもよらないところから送葉の名前が出てきただけではないか。いくら人が多いと言っても乃風さんだって僕らと同じ大学に通っているんだ、送葉のことを知っていても、送葉と交流があっても変な話ではない。僕だって送葉のことを全部知っているわけじゃないんだ。僕も送葉もお互いの関係を隠していたわけじゃない。送葉と乃風さんの間に交流があったのだとしたら関係を知っていてもおかしくない。いや、交流がなかったとしてもおかしな話じゃないだろう。送葉はこの大学では知る人ぞ知る有名人じゃないか。
僕は自分に言い聞かせる。話はまだ序盤だ。
「送葉と知り合いだったんですか?」
僕はまるで今から地雷が埋め込まれた危険域に足を踏み入れるかのような心境だった。さっきから速くなっている脈がさらに速度を増す。
「ええ、彼女と初めて会ったのは去年の春くらいよ」
「どういう知り合いだったんですか?」
「それも今から話すつもり。そんなに焦らないでもこれから私が話せることは全部話すわ」
「それは話せないことは話さないということですか?」
「違うわよ。私が知らないことは話せないってこと。本当に大丈夫? ここまで来てもらってていうのもアレだけど、余裕がないなら今じゃなくてもいいわよ?」
「――すみません、大丈夫です」
これれも強がりだ。本当は大丈夫ではなさそうだった。自分に余裕がないことは自分が一番知っているし、それを自分じゃない人にも悟られてしまう始末だ。昨日、涼人と送葉のことを話した時と似たような感覚にまた自分の弱さを感じる。けど、『あの絵』に送葉が何か関係しているのだとしたら、知っておきたかった。後からではなく、今すぐに聞きたいと思った。目の前に自分の知らない送葉をちらつかされ、自分の中にいる送葉が変わってしまうことを恐れる僕が、自分でも呆れてしまうほど素直にそれを欲した。自分の知らない送葉を今からでも知りたかった。
「続ける?」
僕は何も言わずに首を縦に振った。僕の知らない送葉のことを、送葉が死んでから他の人から聞く。それは僕が知っている送葉を留めるうえで危険な行為なのかもしれない。人が皆一人の人間に同じ印象を抱くわけではない。この話を聞いてしまったら僕の中に留めた送葉は乃風さんが送葉に抱いた印象、感情によって違うものになってしまうかもしれない。そう考えると手足が震えた。僕は両手で紙コップを掴む。
よく考えれば送葉が死んでから誰かと送葉の話をするのは初めてなような気がする。昨日の涼人との会話で送葉の話は出たが、昨日は撫でられただけでしっかりとは触れていない。いや、触れはしたが、反射的に手を引いたというのが正しい。熱いものに触れてしまった時の反応に近い。状況も内容も違うが、僕も涼人も昨日はこれ以上の会話から逃げた。いや、逃げたのは僕だけだ。涼人はいつものように僕に気を遣ったんだと思う。その方が自然だ。
乃風さんは僕が続きを求めてからなかなか話を再開しない。
僕ってやつはまた……。
僕は肺に溜まった淀んだ空気を咽るまで一気に吐き出した。そして大きく深呼吸をする。そんな僕を見て乃風さんが少し目を丸くした。
人に心配は掛けないと決めたはずだ。僕は何故逃げているんだ。いつまでも逃げてちゃダメだろう。それに、僕は『あの絵』に関する送人のことを知りたい。なら聞くしかないじゃないか。送葉は変わらない。変わらせない。根拠なんてない。ただ、僕が送葉のことを誰よりも理解していて、誰よりも愛している。知らないことは多いかもしれない。でも、これだけは誰が何と言おうと事実だ。そうでありたい。そうでないといけないんだ。それではダメだろうか。いや、それは僕が決めることだ。自問自答を繰り返し、意を決して乃風さんに問う。
「送葉と『あの絵』、どう関係があるんですか」
「いいのね?」
乃風さんは今一度、僕に確認をとる。僕はさっきよりも力強く頷く。乃風さんは僕の顔を見ると「わかった」と言って立ち上がると部屋の隅にカバーを掛けて置いてあったキャンバスの中の一つを迷わず持ち上げ、それを僕の近くに置いてあるイーゼルの上に立てかけた。
「まずはこれを見て」
そう言って乃風さんはキャンバスのカバーを外す。