memory refusal,memory violence
「これって――」
カバーの中から姿を現したのは、僕がさっき見た絵とほぼ同じものだった。白をベースにして描かれた部屋に本棚とテーブル、そして机の上には一輪のヒガンバナに似た花が活けられた花瓶だけが置かれている。生活感があるのかないのか判断に困るあの絵。ただ『たより』に飾られたあの絵とは大きく違うところが一つだけあった。それは――。
「描きかけ、ですか?」
僕の目の前に置かれたのは『あの絵』の描きかけだった。絵の右下がほとんど白紙である。
「そう、描きかけなのよ。描きかけというところ以外は似てるでしょ」
「似ているというよりも、一緒……ですよね?」
僕がそういうと乃風さんはあからさまに目を細めた。
「そう言われるとさすがの私も聞き捨てならないわね。心外よ。どう見たって私が描いたやつの方が技術は上よ。圧倒的に」
そうは言われても僕には判別が出来なかった。隣に並べれば分かるのだろうか。でも乃風さんがそう言うのならきっとそうなのだろう。絵に詳しい人が見れば一目瞭然なのかもしれない。
「と、言うことはこれ、乃風さんが描いた物ではないんですよね?」
「ええ、私はこの絵を複製しただけ。つまり『たより』に置いてあるのは本物よりも上手いレプリカ」
「じゃあこの絵を描いたのは……」
僕は改めて乃風さんから絵に視線を下す。描きかけの作品だからか、左下にはまだ作者のサインは書かれていない。しかし、話の流れからこの絵を描いた人物は予想できる。
「この絵を描いたのは御状さんよ」
やっぱり……。
乃風さんが僕の行動を見てこの絵を描いた人物を口にした。そして僕の頭にはまるで導かれたようにある光景が浮かび上がる。
「えっと、この絵のタイトルって何ですか?」
僕は確信したうえで乃風さんに問う。これは質問というよりも確認に近い。しかし、返ってきた答えは僕の予想に反するものだった。
「この絵のタイトルは決まっていないの。完成してないしね」
確かに、創作物は先にテーマを決めていてもタイトルは後から決めるという人もいるかもしれない。
「ええ、でもその顔を見る限り、自分の用意した答えに自信があったようね」
「まぁ……」
僕はかなり自信をもった答えを用意していた。それが顔に出ていて、それも外したとなると、顔に熱がこもるのはどうしても避けることができない。
「でも、文元君が用意した答えはあながち間違いではないと思うわよ。それはきっと『たより』に飾ってある私が描いた方のタイトルだわ」
「あっちにはタイトルがあるんですか?」
僕は赤くなった顔をやり過ごすために視線を下にして乃風さんに訊いた。
「ええ、どんな創作物にも名前がないとなんだか落ち着かないじゃない。だから私はこの作品に名前を付けたかった。けど、この作品そのものに私がタイトルを付けるのは気が引けたの。人の作品に頼まれてもいない他人がタイトルを付けるのは違うんじゃないかって思うの。ましてやこれは完成してないもの。だから、せめて一から描き直して私なりに完成させた上で、自分の方の絵にタイトルを付けた。私から見れば、正直この絵は上手とは言えないけれど、不思議と惹かれるものがあったから。これが盗作だとだと言うのなら謝るわ」
「いいえ、あくまでこれは送葉の描いた作品ですから。僕がどうこう言えることではありませんよ」
送葉がいない今、それを盗作だと主張できる人は誰もいない。もちろん、僕にもそんな権限はない。
「ならいいのだけど」
「ちなみに『たより』の方に飾ったタイトルは……」
「『送葉の部屋』、よ」
やはり僕の思った通りだった。僕が思ったのは『私の部屋』だったが、作者が変われば似た絵でも視点の違いからそれくらいは変わるだろう。これは間違いなく送葉の部屋だった。実際の部屋にはこの絵に描かれた物以外にももっと多くの物が置いてあったのだが、送葉の基準で余分なものはきっと排除したのだろう。故に、この絵に描かれている部屋が、送葉の住んでいた部屋だと今まで気付けなかった。
そうなってくると、懐かしさを感じたのは乃風さんの筆のタッチではなく、送葉が暮らしていたアパートの間取りだろう。
「乃風さんは送葉の家に行ったことがあるんですか」
「一度だけ、ね」
「そういえば、さっき去年の春に知り合ったって言いましてけど、どうやって知り合ったんですか?」
ここまで双方が送葉の知り合いだという体で話を進めてきたが、僕はともかく、乃風さんが送葉とどんな関係だったのかということをまだ聞いていなかった。
乃風さんは親指で自分の下唇を軽く押さえ、「ん~」と小さく唸りながら記憶を辿る。
「えっと、理工学部と心理学部で有志を募ってちょっとした共同研究があったのよ。それに私も御状さんも参加してたんだけど、たまたま二人で話す機会があって、それからよくお話をするようになって仲良くなったの。いたって偶然で普通の出会いだったと思うわ」
初耳だった。付き合う前も、付き合っている時も、もともと「研究をしています」というだけで、あまり自分のことは話すタイプではなかったが、有志の研究に参加していたことなど知らなかった。僕が当時、乃風さんを知らなかったこともあるかもしれないが、送葉との会話に乃風さんの名前や、乃風さんを思わせる人物が出てきたこともなかったと思う。やはり、なんでも知っていることが良いことではないとは思うけど、僕は送葉のことで知らないことが多すぎる。僕の中にいる彼女としての送葉は、送葉のほんの一部分でしかないと今更ながら実感した。
「じゃあ、送葉がこの絵を描いた時期はいつ頃ですか?」
「えっと、それは研究が少し落ち着いたすぐ後だから、御状さんが二年生の冬、確か年が明けてからね。急に私の絵を見せてくれと頼んできたから見せてあげたら自分にも描かせてくれと頼んできたの。それで、少しずつ書いていって、ここまで完成したのが御状さんが亡くなる二か月前。その二カ月は忙しかったのか、全く手を付けてなかった」
「そうですか」
「他に訊きたいことはある?」
乃風さんは再び椅子に座り、足を組んだ。
「送葉は、自分が描いたあの絵になんてタイトルを付けるつもりだったんでしょう?」
「それは私にも分からないわ。私が描いた方の絵にはタイトルを付けたけど、御状さんがこの絵に本当はどういうタイトルを付けたかったのかは私にもわからない。もしわかる人がいるのだとしたら、私なんかより文元君の方がわかると思うんだけど」
「僕にも見当が付きません」
考えて見当がつかないことには気付いていたが、僕は少しだけ考えるそぶりを見せてからそう言った。
「そっか。まぁ、そうだよね」
乃風さんは少し残念そうに体重を背もたれに預ける。
「ならしょうがない。私が文元君に話しておきたいことは言ったし、この話は終わり」
「はい」
「文元君、この絵、もし欲しいのならあなたが持って行っていいわよ。模写も終わったし」
「なら持っていこうと思います」
僕は即答する。送葉が描いた絵だ。下手かもしれないが、僕にはとても価値のあるものに違いない。それに、書きかけといっても、せっかく描いた絵が埃をかぶって部屋の隅に置かれるのはなんだか悲しい。そのうち処分されてしまう可能性も大いにある。
「うん。大事にしてあげて」
「はい」
「じゃあ、帰ろうか」
乃風さんがそう言ったため、僕は一口も口を付けていなかったコーヒーを一気に飲み干した。温かったはずのコーヒーはすでに熱を失い、酸味を帯びて少しだけ飲みにくかった。
カバーの中から姿を現したのは、僕がさっき見た絵とほぼ同じものだった。白をベースにして描かれた部屋に本棚とテーブル、そして机の上には一輪のヒガンバナに似た花が活けられた花瓶だけが置かれている。生活感があるのかないのか判断に困るあの絵。ただ『たより』に飾られたあの絵とは大きく違うところが一つだけあった。それは――。
「描きかけ、ですか?」
僕の目の前に置かれたのは『あの絵』の描きかけだった。絵の右下がほとんど白紙である。
「そう、描きかけなのよ。描きかけというところ以外は似てるでしょ」
「似ているというよりも、一緒……ですよね?」
僕がそういうと乃風さんはあからさまに目を細めた。
「そう言われるとさすがの私も聞き捨てならないわね。心外よ。どう見たって私が描いたやつの方が技術は上よ。圧倒的に」
そうは言われても僕には判別が出来なかった。隣に並べれば分かるのだろうか。でも乃風さんがそう言うのならきっとそうなのだろう。絵に詳しい人が見れば一目瞭然なのかもしれない。
「と、言うことはこれ、乃風さんが描いた物ではないんですよね?」
「ええ、私はこの絵を複製しただけ。つまり『たより』に置いてあるのは本物よりも上手いレプリカ」
「じゃあこの絵を描いたのは……」
僕は改めて乃風さんから絵に視線を下す。描きかけの作品だからか、左下にはまだ作者のサインは書かれていない。しかし、話の流れからこの絵を描いた人物は予想できる。
「この絵を描いたのは御状さんよ」
やっぱり……。
乃風さんが僕の行動を見てこの絵を描いた人物を口にした。そして僕の頭にはまるで導かれたようにある光景が浮かび上がる。
「えっと、この絵のタイトルって何ですか?」
僕は確信したうえで乃風さんに問う。これは質問というよりも確認に近い。しかし、返ってきた答えは僕の予想に反するものだった。
「この絵のタイトルは決まっていないの。完成してないしね」
確かに、創作物は先にテーマを決めていてもタイトルは後から決めるという人もいるかもしれない。
「ええ、でもその顔を見る限り、自分の用意した答えに自信があったようね」
「まぁ……」
僕はかなり自信をもった答えを用意していた。それが顔に出ていて、それも外したとなると、顔に熱がこもるのはどうしても避けることができない。
「でも、文元君が用意した答えはあながち間違いではないと思うわよ。それはきっと『たより』に飾ってある私が描いた方のタイトルだわ」
「あっちにはタイトルがあるんですか?」
僕は赤くなった顔をやり過ごすために視線を下にして乃風さんに訊いた。
「ええ、どんな創作物にも名前がないとなんだか落ち着かないじゃない。だから私はこの作品に名前を付けたかった。けど、この作品そのものに私がタイトルを付けるのは気が引けたの。人の作品に頼まれてもいない他人がタイトルを付けるのは違うんじゃないかって思うの。ましてやこれは完成してないもの。だから、せめて一から描き直して私なりに完成させた上で、自分の方の絵にタイトルを付けた。私から見れば、正直この絵は上手とは言えないけれど、不思議と惹かれるものがあったから。これが盗作だとだと言うのなら謝るわ」
「いいえ、あくまでこれは送葉の描いた作品ですから。僕がどうこう言えることではありませんよ」
送葉がいない今、それを盗作だと主張できる人は誰もいない。もちろん、僕にもそんな権限はない。
「ならいいのだけど」
「ちなみに『たより』の方に飾ったタイトルは……」
「『送葉の部屋』、よ」
やはり僕の思った通りだった。僕が思ったのは『私の部屋』だったが、作者が変われば似た絵でも視点の違いからそれくらいは変わるだろう。これは間違いなく送葉の部屋だった。実際の部屋にはこの絵に描かれた物以外にももっと多くの物が置いてあったのだが、送葉の基準で余分なものはきっと排除したのだろう。故に、この絵に描かれている部屋が、送葉の住んでいた部屋だと今まで気付けなかった。
そうなってくると、懐かしさを感じたのは乃風さんの筆のタッチではなく、送葉が暮らしていたアパートの間取りだろう。
「乃風さんは送葉の家に行ったことがあるんですか」
「一度だけ、ね」
「そういえば、さっき去年の春に知り合ったって言いましてけど、どうやって知り合ったんですか?」
ここまで双方が送葉の知り合いだという体で話を進めてきたが、僕はともかく、乃風さんが送葉とどんな関係だったのかということをまだ聞いていなかった。
乃風さんは親指で自分の下唇を軽く押さえ、「ん~」と小さく唸りながら記憶を辿る。
「えっと、理工学部と心理学部で有志を募ってちょっとした共同研究があったのよ。それに私も御状さんも参加してたんだけど、たまたま二人で話す機会があって、それからよくお話をするようになって仲良くなったの。いたって偶然で普通の出会いだったと思うわ」
初耳だった。付き合う前も、付き合っている時も、もともと「研究をしています」というだけで、あまり自分のことは話すタイプではなかったが、有志の研究に参加していたことなど知らなかった。僕が当時、乃風さんを知らなかったこともあるかもしれないが、送葉との会話に乃風さんの名前や、乃風さんを思わせる人物が出てきたこともなかったと思う。やはり、なんでも知っていることが良いことではないとは思うけど、僕は送葉のことで知らないことが多すぎる。僕の中にいる彼女としての送葉は、送葉のほんの一部分でしかないと今更ながら実感した。
「じゃあ、送葉がこの絵を描いた時期はいつ頃ですか?」
「えっと、それは研究が少し落ち着いたすぐ後だから、御状さんが二年生の冬、確か年が明けてからね。急に私の絵を見せてくれと頼んできたから見せてあげたら自分にも描かせてくれと頼んできたの。それで、少しずつ書いていって、ここまで完成したのが御状さんが亡くなる二か月前。その二カ月は忙しかったのか、全く手を付けてなかった」
「そうですか」
「他に訊きたいことはある?」
乃風さんは再び椅子に座り、足を組んだ。
「送葉は、自分が描いたあの絵になんてタイトルを付けるつもりだったんでしょう?」
「それは私にも分からないわ。私が描いた方の絵にはタイトルを付けたけど、御状さんがこの絵に本当はどういうタイトルを付けたかったのかは私にもわからない。もしわかる人がいるのだとしたら、私なんかより文元君の方がわかると思うんだけど」
「僕にも見当が付きません」
考えて見当がつかないことには気付いていたが、僕は少しだけ考えるそぶりを見せてからそう言った。
「そっか。まぁ、そうだよね」
乃風さんは少し残念そうに体重を背もたれに預ける。
「ならしょうがない。私が文元君に話しておきたいことは言ったし、この話は終わり」
「はい」
「文元君、この絵、もし欲しいのならあなたが持って行っていいわよ。模写も終わったし」
「なら持っていこうと思います」
僕は即答する。送葉が描いた絵だ。下手かもしれないが、僕にはとても価値のあるものに違いない。それに、書きかけといっても、せっかく描いた絵が埃をかぶって部屋の隅に置かれるのはなんだか悲しい。そのうち処分されてしまう可能性も大いにある。
「うん。大事にしてあげて」
「はい」
「じゃあ、帰ろうか」
乃風さんがそう言ったため、僕は一口も口を付けていなかったコーヒーを一気に飲み干した。温かったはずのコーヒーはすでに熱を失い、酸味を帯びて少しだけ飲みにくかった。