memory refusal,memory violence
癖、模倣
僕と綾香は場所を大学から『たより』に移した。日中は常に騒がしい大学の喫茶店とは違い、この時間のたよりは人が多すぎず、比較的穏やかな時間が流れている。客として来た僕と綾香にマスターが飲み物をサービスしてくれるということで、僕はカプチーノを、綾香はさっきの見損ねたアイスコーヒーを頼んだ。
「さっきはごめんね。場所まで変えてもらって、すごく楽になった」
「いいんだ。気にしないで」
綾香は車で移動している間に落ち着きを取り戻し、車の中で大学での出来事に対して顔を真っ赤にして恥ずかしがっていた。いつもの調子とまではいかないかもしれないが、送葉を失う前の綾香に少し戻ったようで安心したし、僕もどこか気持ちが晴れた。
「それで、伝達は私に何が訊きたかったの?」
「あ、そうそう」
先ほどの一件で本来の目的を忘れそうになってしまっていた。僕は鞄から昨日届いた葉書を取り出して机の上に置く。
「昨日届いたんだ」
僕は、送葉(仮)さんから届いた葉書を机の上に置く。
「葉書?」
「うん。実は送葉が死んでから、ケジメのつもりで送葉に手紙を書いたんだ」
僕は綾香にこの葉書が届くまでの過程を簡単に説明した。
僕は送葉(仮)さんから届いた葉書の事について、誰かに相談するべきかを昨日と今日で考えた。そして、誰に相談するかと考えたとき、僕の知り合いの中で、一番送葉を知っているだろう綾香が一番に浮かんだ。涼人や乃風さんも送葉のことをある程度は知っているだろうが、やはり、同じ学年、学部、学科で、普段から一緒にいる時間の多い綾香がより送葉を知っていることは言うまでもないだろう。
正直なところ、綾香を少しも疑っていないと言えば嘘になる。このようなことはあまり考えたくないのだが、送葉(仮)さんが誰なのかということを考えた時、綾香が最初に浮かんだのも事実だった。その上でこの葉書を綾香に見せることを決めた。
「読んでいいの?」
「うん、読んでみて」
綾香は何も知らない様子で葉書に手を伸ばす。そして暫し、葉書に書かれた内容に目を通す。そして、きっと「送葉」という文字を見たのだろう。もともと大きな瞳がさらに見開かれた。
綾香が葉書を読み終わるまで、僕は終始綾香のことを観察した。そして、どれだけ注意深く観察したところで綾香がこの葉書の差出人で、今、葉書を初めて見るかのようなわざとらしい演技をしているようには見えなかった。もちろん、綾香の演技が僕の観察眼を上回っているということも考えられるのだが、しつこく綾香を疑うようなことは気が引ける。
「ねぇ、伝達。これって昨日届いたんだよね?」
手紙を読み終え、綾香は顔を上げて僕の顔を見る。
「うん」
僕が首肯すると綾香は何かが引っ掛かると言った様子で再び葉書に目を落とした。そして葉書を見ながら一言、こう言った。
「正直、驚いた」
「僕だって驚いたよ。驚いて、戸惑ってるから、今から綾香に相談しようとしてる」
「ううん、そうじゃないの。そりゃあ、送葉が死んだ後にこんな葉書が届けば驚くと思うし、私も伝達と同じように驚いて、戸惑ってるんだけど、内容的なところ以外にも驚くべきところがあるのよ」
「内容的な部分ではないところ?」
「この葉書を書いた人、たぶん伝達が思っている以上に送葉になりきってる。こんなこと、送葉の細かいところまで知っている人しかできないわよ」
綾香はそう言うと、僕に読みやすいように葉書を僕の前に置いた。
「伝達は送葉から何か、手紙とか送葉の自筆の文字が書かれたものを貰ったことない? もしくは読んだことない?」
「手紙のやりとりはしたことないよ。ちなみにメールのやりとりもあまりしたことない。電話も……あまりしたことない……」
言葉にしてみてなんだか悲しくなってきた。
「知ってたけど、現代っ子にしては珍しいわよね、やっぱり……。カップルとして変わってたというよりも、送葉が少し変わった子だったから仕方ないと言えば仕方ないけど。それでちゃんと続いてて、お互いに想っていたんだから気にすることないんじゃない?」
「フォローありがとう」
「じゃあ話を戻すけど、伝達は送葉が書いた字をあまり見たことがないのね」
僕は出来る限りの記憶を辿ってみたが、送葉の字についての記憶は見つからなかった。
「たぶんないと思う。絶対とは言えないけど」
「まぁ、問題ないわ」
綾香はそう言うと、葉書に書いてある一文を指さした。
「伝達さんへ?」
僕は指されている文を声に出して読む。
「違う。この一文字だけに注目して」
僕は少し目を細めて指されている一文字を凝視する。
「さ?」
「うん。伝達は『さ』という文字を書くとき、何画で書く?」
僕は確かめる必要性もなかったが、なんとなく机に『さ』という文字を指で書いた。
「三画……あッ!」
そこで初めて気が付いた。そして、綾香の言いたいことも同時に理解する。
僕は葉書を手に取ってもう一度、葉書を読み返す。今度は内容ではなく、『さ』という文字に注目する。
伝達『さ』んへ
伝達『さ』んこんにちは。こんな葉書が届き伝達『さ』んはきっと驚かれているでしょうね。すみません。お手紙ありがとうご『ざ』いました。精読『さ』せていただきましたよ。とても嬉しいです。でも今の私には伝達『さ』んの気持ちがおそらく本来の私より届いていません。何故かと言いますと私はまだ完全な送葉になれていないからです。ですから私は送葉というよりも送葉(仮)とか送葉になりうる者とかそういった言い方をしたほうが正しいかもしれません。ですが今回伝達『さ』んに手紙を頂いて本物の送葉になれると確信したのであの手紙を下さった矢先にどうかとも思いましたがこの葉書を送りました。
前回お手紙をくださったところにお返事いただけると嬉しいです。
送葉(仮)より
そこに書かれていた全ての『さ』は二画で書かれていた。通常の二画目と三画目が繋
げて書かれていて、平仮名の『ち』を鏡に映したかのような形をしている。
「パソコンとかで打ち込んだり、毛筆で書いたならこの形の『さ』になるかもしれないけど、普通に文字を書いたとき、この形の『さ』になる?」
「僕はならない」
「私もならない。きっと、この『さ』を書く人の方が少数派よ。私はレポートとかで送葉の字を見ることが結構あったんだけど、なんとなく、この『さ』が気になってたの」
確かに癖字というのは、本人は気にしていなくても他人がみると意外と気になるものなのだ。
「でも少数派ってだけでしょ。これくらいの癖字なら幾らでもいるよ。これを癖字といえるかも怪しいくらいだ」
「そうね。でも、これはなんとなくでしかないんだけど、他の文字も送葉のものと似てるような気がする。癖字とかではないんだけど、同じ文字でも十人十色でしょ」
「そうだけどさ」
「あともう一つ」
「なに?」
「この文には読点がないのよ」
これには僕も、初めにこの葉書を読んだ時から気付いていた。読みにくいことこの上ない。
「送葉って普段から読点使わなかったの?」
「うん。天才ともてはやされてた送葉も手書きのレポートとかは読みにくいって、よく教授に言われてた」
送葉は口下手なところがあったので、書く文章が苦手だと言われてもなんとなく合点がいってしまった。
「伝達、送葉からのメールとかってまだ残ってたりする? 残ってるならなるべく長文なのを探してみて。私も探してみるから。読点の事に関してはメールも一緒だと思う」
「ちょっと待って」
僕はズボンのポケットからスマートフォンを取り出す。送葉とのメールはまだ残っている筈だ。画面をタップしてメールフォルダを開く。送葉との連絡はチャットアプリではなく、メールで行っていた。理由は簡単で、送葉がアプリをインストールしていなかったからだ。故に、送葉以外の人とはほとんどアプリで連絡を取っていた僕のメールフォルダは、ほとんどが送葉からのものだ。送葉からのメール自体を探すのは難しくない。
送葉からのメールを一つずつ確認していく。送葉からのメールのほとんどは「研究です」、「では明日」、「今から出ます」など、読点が必要のないほど短い一言で済まされているものがほとんどで、長文のメールはなかなか見つからない。
たまに出てくる「好きです」というメールに少しにやけそうになりながらも、メールの確認を進めていくと、やっと少し長めのメールを見つけることが出来た。
それは去年、僕の誕生日に送られてきたものだった。
伝達さん誕生日おめでとうございます。こんな日まで会いに行けなくてすみません。でも伝達さんはきっと許してくれるのでしょうね。なんだか嬉しいような悲しいようなそんな気分です。けどそんな優しすぎるほど優しい伝達さんが私は好きですよ。今日は外すことのできない研究で伝達さんをお祝いすることはできませんがせめて埋め合わせくらいはしたいです。それでは良いお誕生日を。
「ちょっと長めのメール見つけた。本当にメールでも読点がない」
僕はスマホを綾香の読みやすいようにして手渡す。スマホを受け取った綾香はディスプレイをジッと見つめながらメールを読み、そして、プッと小さく吹き出した。
「あの子、こんなメールを伝達に送ってたんだ。ちょっと意外」
僕の知らない送葉を他の人が知っていることもあるが、僕しか知らないものも当然ある。それに少し心が浮つく、が――。
「確認するのはそこじゃないだろ!」
僕が送ったメールではないが、自分に送られてきた恋文ならぬ、恋メールを見られるのもなかなか恥ずかしいものらしい。綾香からスマホを奪う。
「別に恥ずかしがらなくてもいいじゃない。あの子、研究ばっかりだったじゃない? だから人との付き合いとかはあまり興味ないのかとずっと思ってたの。だから、彼氏がいるって聞いたときは驚いたし、今もこのメールを見て、そうでもなかったんだなって思っただけよ」
「綾香と送葉は仲良かったじゃないか」
「それは半ば強引に私が友達になったからね。なんというか、放っておけなかったの。まぁ、大学生にもなってそんなことするのはありがた迷惑だったかもだけど」
綾香は頬杖をついて視線を小さな窓の方向へ移した。袖が長いのか、それともわざとそうしているのか、袖先が手の半分ほどを隠していた。僕もつられて視線を窓の方に向ける。さっきまで一人でコーヒーを嗜んでいた老夫が、店から遠ざかっていくのが見えた。