memory refusal,memory violence

拝啓

 送葉が死んでから一カ月が過ぎた。

 今のままではいけない。送葉は死んだのだ。彼女の事を忘れる気はない。ただ、これ以上、僕の中で送葉を生き続けさせればいつかそれは送葉ではない、送葉から派生した、幻想から生まれる誰かなってしまうような気がした。それは生きていたころの送葉を冒涜(ぼうとく)するようで、いけないことのような気がした。『心の中で生きている』という言葉を漫画や小説でよく目にするが、僕はこれほど残酷なことはないと思う。それは混迷の中の妄想でしかない。死んだ彼ならきっとこうした、彼女ならこうしたなどと考えるのは亡き者に対する押し付けでしかない。

 依然、胸はひどく痛む。受け入れようとする僕と、それを拒む僕が擦れ合い、刺し合い、ぶつかり合い、締め付け合い、様々な痛みが交差する。今のままでは僕も、僕の中の送葉も壊れてしまう。

 これで終わりにしよう。

 僕は送葉に別れを告げることを決意した。

 悩んだあげく、僕は送葉に手紙を書くことに決めた。送葉が眠る墓を前にしたら上手く別れを告げられるか不安だったため、そうすることに決めた。

 大学生協に足を向かわせ、レターセットを探していると、あるキャラクターがプリントされたものが目に留まった。今は引き払われた送葉の部屋は殺風景だったが、たった一つだけあったぬいぐるみのキャラクター『脳ちゃん』と同じものだ。彼女は別段好きなわけではないといっていたけど、なんの愛着がないものよりはそっちの方がいいだろうと思い、それを購入する。

 家に帰り、僕は早速筆を執る。


 拝啓
 風薫る五月になりました。送葉はこの風を感じることが出来ているのでしょうか。僕はこの風の薫りの中に君の薫りを感じられないことがとても寂しく思います。嘘です。正直、風の薫りを感じられるほど余裕がありませんでした。
 君を失ってからというもの、何をやるにも身が入らず、感じるのは胸の痛みばかりです。今も言葉に言い表せない痛みが僕を襲っています。県外でも海外でも宇宙でもなく、天国に一人で行ってしまうとは飛躍しすぎです。笑えません。君がいなくなってしまったばっかりに、僕は本当に上手く笑うことが出来なくなりました。正直、まだ送葉はどこかで生きているのではないかという気さえします。そんなこと言われても困っちゃうね。
 これではいけない。そう思い、胸の痛みに打ち勝ち、笑顔を取り戻すべく今回、送葉に送る最初で最後の手紙を送ることにしました。最後といったら送葉は寂しがってくれるかな? 僕には天国でも研究するとか言いだしそうな君がこの手紙すら読んでくれないかもと心配です。ここは笑うところです。
 冗談はさておき、君と出会って二年、何か特別なことをしたり、どこか遠くへ行ったりすることは最後までできなかったけれど、君と一緒に過ごした時間、君を思うことが出来た今までの時間はとても愛おしいものでした。ありがとう。
 さっきも書いたようにこれは最初で最後の手紙です。つまりお別れを告げるために書く手紙です。だからダラダラと長く書くつもりもありません。
 僕は前に進みます。どうやら僕は、送葉に自分で思っていた以上に依存していたようです。だから、君にこの手紙を届けたところで君との時間を止めます。どうか悪く思わないでほしい。これは僕が見てきた、ありのままの君を生かすためのケジメなのです。
とにかくこれでお別れです。天国だからこんな心配いらないだろうけど、お達者で。
最後に一言だけ言わせてください。送葉のことを愛してました。     
  敬具
                       文元(ふみもと) 伝達(でんたつ)
御状(ごじょう) 送(そう)葉(は) 様

追伸
 たまには会いに行くつもりだよ。                        

 書き終ってゆっくりと筆を机の上に置く。小さく、そして長く息を吐くと、少しだけ恥ずかしくなった。まともに手紙なんて送ったことがなかったし、その相手が送葉だからだろうか、余計に恥ずかしい。でもこれでいいのだ。胸の痛みは相変わらずだが、ほんの少し、本当に少しだけ和らいだような気がしないでもない。僕はその短くて、簡単で、ひとりよがりな文章を丁寧に何度何度も見直し、二つに折って封筒に入れる。そして、最後に『脳ちゃん』のシールで封をした。

 しばらくの間目を瞑り、封筒に入った手紙を胸に当てる。

 本当は手紙に書きたいことがもっとたくさんあった。送葉の早すぎる死に対する未練、愚痴や送葉を轢き殺した奴への嫌悪。挙句には、事故当時、送葉と一緒に居たという綾香への文句も書きそうになった。実際に書いてしまったものが丸まってゴミ箱の中にいくつも納まっている。こんなものは送葉との別れには必要がないものだと気付き、書くことをやめた。

 他にもたくさんの思い出を何枚も書きそうになった。これといったものはなくても、送葉との思い出は僕の中に数えきれないほどある。送葉が死んでから今までの間、記憶の隅にしまわれていた他愛のない送葉との会話や送葉のしぐさが無数に頭の中核に戻ってくるようになった。それを文字に表そうとすると、よりそれらは鮮明に脳裏に浮かんだ。

 あまりに鮮明過ぎて怖くなった。これを文字にしてしまうと、僕の妄執によって、僕の中にいる送葉が変わってしまうような気がしてならなかった。それでは本末転倒だとこれも書くことをやめた。

 手紙の入った封筒を机の引き出しにしまう。本当はすぐにでも届けに行きたかったが、生憎、送葉の墓がある彼女が生まれ育った町はここから距離がある。行こうと思えば一日で往復することはできなくもないが、外はもう暗い。それに、どうせもう送葉はいないのだから、焦って届けに行く必要はないだろう。手紙を書いた、今日はそれだけで十分な進歩だ。

 机の電気を消し、部屋の明かりをつける。それだけで何だか一瞬で別のところに移動した気がした。一気に現実という名の世界が押し寄せてきた気分だ。いい状況とは言い難い。さっきまで少し良くなったような気がしていた胸の奥が、また締め付けられるように痛む。送葉への手紙を書いていた時間はいったいなんだったのだろう。その時だけの現実逃避に過ぎない、どうしようもなくしょうもないことだったのだろうか。僕は首を横に振った。そんなことないはずだ。僕は送葉に別れを告げると決めたんだ。それはもう揺るがない。揺るがせない。僕は自分に胸の内で言い聞かせる。そのたびに胸がまた締め付けられ、擦れて軋む。やがて、それは様々な痛みを集めたように、僕が知っている言葉では表せない痛みに変わる。

 つけたばかりの部屋の明かりを消す。今日はもう胸の痛みに耐える以外、なにもやる気が起きなかった。天井につけられた電気みたいに、スイッチを押すだけでオンとオフを切り替えることができるほど、僕はできた人間ではない。科学では証明できないだろうこの構造にここまで懊悩する日が来るとは思わなかった。

 僕は、未だにこの痛みを諌める術を掴めずにいる。
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