memory refusal,memory violence
過去
私とお兄ちゃんは、七年前にこの『四葉児童ハウス』に預けられた。理由は父から受ける家庭内暴力。優しいが取り柄だった母親の姿はいつの日からか急に見えなくなった。当時は私の中にそういう概念がなかったため気付くことが出来ず、ただただ優しく自慢の母親だと疑わなかったが、今思い返せば、母は父の他にも男を作っていたようだった。そう考えれば父の急変も合点がいく。
父から最初に暴力を受けるのは決まって三つ年上のお兄ちゃんの方で、それを見て泣き喚く私にも父は手を挙げた。そして、殴られる私を庇おうとして、お兄ちゃんはまた殴られた。
父の暴力が始まってしばらく過ぎたくらいだろうか、私はお兄ちゃんにこう提案するようになった。
「お家にいたくない。お兄ちゃん、どこかに二人で引っ越そうよ」
そう言うとお兄ちゃんは決まって笑顔でこう返してきた。
「お母さんはきっと帰ってくるから。そうすればお父さんもきっとまた優しくなるよ」
しかし、母親はいつまでたっても帰ってくることはなかった。父親は私たちに暴力を毎日のように振るい続け、痣、切り傷、火傷、身体のいたる所に暴力の跡は刻まれていった。
そして遂に、表面的には良父を演じて、自分の悪行を隠していた父の暴力は世間にばれた。
異変を最初に察知したのは、私とお兄ちゃんが通っていた小学校の先生だった。
夏だというのに兄妹そろって長袖長ズボンを着てくる。二人共、半袖半ズボンの体操着を着なくてはならない体育は見学ということに、当時、私の担任であった先生が不審に思い、私に尋ねてきたのだ。そして、我慢の限界をとっくに超えていた私は、全てを先生に話した。
そこからの展開はあっという間だった。子供の私たちにはついていけない速さで物事が進み、気付いた時にはこの『四葉児童ハウス』への入居が決まっていた。
私は暴力から解放されたことに心底安堵していたが、お兄ちゃんは違うようだった。父から暴力を受けていた時でさえ私を笑って励ましてくれたのに、お兄ちゃんは四葉に入ってから少しも笑わなくなった。そんなお兄ちゃん変化を見て、私は兄妹でありながら、お兄ちゃんに対する話しかけづらさを感じるようになった。だからだろうか、私とお兄ちゃんとの会話は四葉に来てから極端に減った。
四葉に入ってしばらくすると、新しい普通にも慣れた。
今まで知らなかった場所に住むということ。ちょっと前まで知らない他人だった人と、毎日寝食を共にするということ。訳ありの転校生として学校に通うということ。親がいないということ。お兄ちゃんが笑わないということ。お兄ちゃんとあまり話さないということ。そんなことが普通になってしまった。
そして、そんなことを普通としてしまったからだろう。既に崩れていたものがさらに崩れてしまった。