memory refusal,memory violence

元母


「なぁ」
 四葉児童ハウスで生活を始めて六年の月日が過ぎた秋だった。私は中学一年に、お兄ちゃんは高校一年になっていた。リビングでの食事を終えて、四葉にいるみんなが各々の行動に移ろうとしている時、突然、お兄ちゃんは後ろから私の肩を掴んだ。必要なとき以外はお兄ちゃんと話さないという普通に慣れてしまっていた私は、それに酷く驚いた。四葉に来てからというもの、お兄ちゃんは誰に対しても基本的に自分から話しかけることはしなかった。そんなお兄ちゃんが兄妹である私とはいえ、自分から人に話しかけた。そんな様子を見て、四葉にいる皆が目を丸くしていた。私も例外ではない。それくらいお兄ちゃんが人に話しかけるのは珍しいことだった。

「ちょっといいか?」

「え、何?」

「話がある」

「話って?」

「着いてきて」

 そう言うとお兄ちゃんは先に歩き始めてしまった。当然、私はお兄ちゃんに着いていく。会話が減ったと言っても、たった一人信頼できる家族を無碍にする理由はない。宿題をしようと思っていたが、そんなものは後からでもいい。なんなら一日くらいやらなくてもいい。優先順位は圧倒的にお兄ちゃんが上だった。

 お兄ちゃんの後ろを着いていく。着いたのはお兄ちゃんの部屋だった。四葉は建物に対して、子供の数が少ない。そのため、中学に上がり、希望すれば個人の部屋が割り当てられる。そして、お兄ちゃんは中学生になる時、それを希望した。そのため、それまでは減ったと言っても少しはあった会話が、お兄ちゃんが中学に上がってからはさらに減った。私も中学生になってからは自分の部屋を持っている。

 最初は寂しいと思うこともあったが、それにも時間が経てば慣れてしまう。でも、それでもいいと思った。中学生になったから自分の部屋を持つ、それだけのことだ。普通の家庭なら小学生でも自分の部屋を持っていても少しもおかしなことではない。それに、会話はなくても私はお兄ちゃんのことを分かっているつもりだったし、お兄ちゃんもまた、私の事を理解してくれていると思っていた。

「入って」

 言われるままに私はお兄ちゃんの部屋に入る。お兄ちゃんの部屋に入るのは最初に荷物運びを手伝って以降、二度目だった。久しぶりに入ったお兄ちゃんの部屋は整えられているというよりも、必要なものだけを置いていて無駄がなく、綺麗というよりも殺風景と言う方がしっくりきた。

「久しぶりに入った。お兄ちゃんの部屋、あまり物置いてないね」

「自分の部屋にいても特に何もしないから」

「ふ~ん、そうなんだ」

「うん」

 そう言っているものの、お兄ちゃんは普段、四葉にいる間は自分の部屋に籠っている時間の方が圧倒的に長い。

「確かにお小遣い少ないし、お店も歩いて行くには遠いから、なかなか自分の好きなもの買えないよね」

「うん」

 なんだかお兄ちゃんが私を呼んだのに、軽くあしらわれているように感じた。私の中にいるお兄ちゃんは未だに四葉に来る前の印象が大きい。だからだろうか、何だかお兄ちゃんではない人と話しているような気さえした。

「それで、私に話って何?」

 私はお兄ちゃんの様子を窺ったうえで、早めに本題の話に持って行くことを選択する。

「今から話す。そこら辺座って」

 こころなしかお兄ちゃんの声のトーンが上がったような気がした。その変化に気付きはしたが、言われた通りにお兄ちゃんのベッドに腰掛ける。お兄ちゃんは机の椅子に座った。

「お前に話しておきたいことなんだけど」

「うん」

「俺、ここでの生活をやめようと思う」

「え、どういう事?」

 突然すぎて言っていることがわからなかった。いや、本当はその言葉だけで大体言いたいことは理解できたのだが、自分の耳を疑いつつ、私は分からないフリをした。

「四葉から出ていこうと思う」

「なんで?」

「実は今、母さんと手紙のやりとりしてるんだ」

「は?」

 初耳だった。そして再度、自分の耳を疑った。お兄ちゃんは私が困惑していることを察し、机の中から数枚の便箋を取り出し、ベッドにそれを置いてまた椅子に座る。

「何これ?」

「母さんからの手紙。封筒には偽名使ってるけど、これは今村さんたちに気付かれないよう、念のために対策してるだけ」

 私は横に置かれた便箋の一枚を手に取る。そのころの私は既に、あの惨劇の元凶が元母親にあることに気付いていた。そんな女が何故、今になってお兄ちゃんと手紙のやりとりをしているのか、それが理解できない。どうやって私たちの居場所を知ったのか分からないが、そんな事どうだってよかった。何故自分たちを捨てて他の男のところに行った女が、今更お兄ちゃんに手紙を出したのか。一体どういう神経をしていれば捨てた子供に手紙を出せるのか。そもそも目的は何なのか。そして何より、そんな女となんでお兄ちゃんは手紙のやりとりができるのか。全てが意味不明で理解不能だった。

 私は丁寧に開けられた封筒の中から手紙を取り出し、恐る恐る目を通した。そこにはまるで、自分がまだ母親であるかのような態度の言葉が何個も羅列されていた。自分のことを『お母さん』と書いている所さえある。

 背筋が凍り、頭が捩じられたように痛んだ。腹の底からどす黒いものが込み上げてくるようで吐き気もする。私は見ていられなくなり手紙を投げるようにしてベッドに置いた。

「こんなこと、いつからしてるの?」

「俺が中学に上がったころから」

「何をしてるの?」

 素直に怒りと呼べる感情が込み上げてきた。

「何って? 母さんと手紙をしてるんだよ」

「あんな人、私たちの母親じゃないじゃない!」

「じゃあ、誰が俺たちの母親だっていうんだよ。まさかここの職員だっていうのか? あの人たちは良心でやっているのかもしれない。けど、あくまで慈善事業だ。母親っていうのは善意を持ってやることじゃない。俺たちの母親は母さんしかいない」

「あんな女、私たちの母親じゃない!」

「そんなこと言うなよ。母さん、お前の事も心配してるんだ」

「お兄ちゃん、私たちにお母さんなんて……いないんだよ」

「母さんだっていろいろあったんだよ」

「いろいろあったから仕方ないで済まされる話じゃないでしょ!」

「まぁ、話を聞けよ。ここからが本題なんだ」

 私がどれだけ声を荒げて泣いていても、お兄ちゃんが取り乱すことはなかった。むしろ、どこか嬉しそうに話しているようにさえ見える。そんなお兄ちゃんを、私は見たくなかった。

「聞きたくない! もうやめてよ、こんなこと!」

 私は母からの手紙を再び手に取り、今度は読むのではなく、引き裂いた。怒りに任せて何度も何度も引き裂いた。お兄ちゃんはイスから立ち上がるそぶりを僅かに見せたが、結局立ち上がらず、私が手紙を破く姿をただ呆れ顔で見ていた。

 私が手紙を破くのをやめると、私の周りの床は紙屑でいっぱいになった。私は息を荒げながら紙屑を蹴り飛ばし、お兄ちゃんを睨む。

「まったく、しょうがないな」

 お兄ちゃんは、私のヒステリックに一切の動揺を見せなかった。むしろ何も分かっていない赤ん坊のする粗相を見るような目で、お兄ちゃんは優しく私に笑って見せた。そして、そんなお兄ちゃんを見て、私は初めてお兄ちゃんの神経を疑った。

「とにかく、もうあの女と関わらないで」

 お兄ちゃんからの返事はない。

「約束してよ! 今ここで私に誓って!」

「分かった分かった。約束する」

「ここからも出ていかないで」

「わかった。高校卒業するまでは出ていかない」

「本当だよ!」

「分かったって」

 私の必死さに対し、お兄ちゃんの返事はとても軽いものだった。どこまで分かっているのか分からない。分かったのはとても信用に足る返事ではなかったという事だけだった。だけど、そう言われてしまうと、私はもうそれ以上の事を言うことができず、紙屑となった手紙を踏み潰して部屋から出ていくことしかできなかった。

 部屋から出る間際に少しだけ振り返る。お兄ちゃんはさっきと変わらない、違う場面なら優しい顔だと感じたかもしれない。ただ、今その顔をされても、不気味としか感じることが出来なかった。
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