memory refusal,memory violence

シンクロ

 四葉に帰り、夕飯や入浴などの諸々を済まし、自室の椅子に座って机の上に置いたプリントを見つめる。御状送葉、そう名乗った女子高生から貰ったものだ。まだ読んではいないが、彼女が『感情の取得』をするため、私とシンクロする方法や手順、そして、私がその実験に参加したくなるようなことが記してあるらしい。それは先ほど口頭で告げられている。

 プリントを摘み上げ、ペラペラと振ってみる。意味なんてない。

 私は読むのを躊躇していた。さっきから《私が間違いなく実験に参加したくなる》という言葉が妙に引っ掛かっている。普通に考えればいくら偏差値の高い女子高生だとしても、そんなことは出来ないことは分かる。そんなことは様々な分野のエキスパートが集結しても成功しないんじゃないだろうか。私は脳科学や心理学について詳しくないが、それくらい発想がぶっ飛んでいることくらいは分かる。しかし、御状さんに感情がない手前、私の思い込みであるのだろうが、そこには妙に確信めいた自信を感じた。もちろん、感情がないということ自体、嘘だという可能性も大いにあるのだが、私は一抹の不安のようなものを拭えずにいた。

 もしもこの実験が本当に彼女の『感情の取得』に結びつく、もしくは成功しなくても、何かしらの効力を発揮するのなら、彼女と『シンクロ』しようとした私の感情はどうなるのだろうか。実験というほどだから、成功するという確証はないのだろう。感情がない故に無慈悲な実験かもしれない。

 そんな不安を解消させるような説明が書いてあるのかもしれない。もしそうでなくても、このプリントに《私が間違いなく参加したくなる》ような内容が記してあり、もうこの段階から実験は始まっていていたとすれば、私は後戻り出来なくなるかもしれない。そうなれば言葉通り、彼女の手の平で踊らされることになる。それはもう実験ではなく洗脳だ。もしそうなってしまえば、私は彼女の駒でしかなくなる。

「いやいやいや」

 いくらなんでも考え過ぎだ。御状さんは間違いなく変わった人だが、ただの女子高生に違いはない。彼女が遅れてきた中二病を患っていると考えた方がまだ現実味がある。
 私はプリントを読むことにした。どうせ私は読む。そう決めつけていた御状さんの言葉通りになるのは少し癪だが、そんなことを毎回言っていたら人生は障害ばかりだ。私は摘み上げていたプリントを両手で持ち直し、プリントに印刷された文字を読む。

「……ワケワカメ」

 内容はやはり冒頭から『虚偽記憶』、『過誤記憶』、『Repressed Memory』、『クライエント』、『ヒューム』、『情緒主義』などといった私の知らない単語が所狭しと並べられていた。辞書を引いてみたが、そんなことをしたところで中学生の私には深くまで内容を理解することはできない。中学生に渡す内容としてはあまりに気の利かないプリントだった。何より読点が全く使われていないため、読みにくいことこの上ない。

 ただ、確かに私が実験に参加したくなるような、私の興味を引くことも少しは記してあった。それは、この実験は御状さんにとっては感情を取得するためのものだが、私にとっては『精神的苦痛の緩和』に繋がる可能性があるというものだった。

 私の中にある精神的苦痛。それは言うまでもなく『母の失踪』、『父の暴力』、『兄の裏切りからの死』である。とりわけ最後の要であった兄だった人の件は今でも私を深く苦しめている。おそらく御状さんが言っているのはこの事で間違いないだろう。本当にそんなことができるのなら願ってもないことだ。死んでしまった、または頭の中で殺した裏切り者達の事で頭を使うのもいい加減疲れてしまった。忘れるつもりは毛頭ない。彼らの事は一生を掛けて恨んでやる。

 しかし、彼らの事を考えて死んでしまおうかと考えてしまう自分をどうにかしたい。それが己の持つ精神的な強さではなく、与えられた擬似的な強さであるのだとしても関係ない。それに関しては既に根本的なところからの解決は不可能だ。

 ちょうどいいところで一度区切りをつけ、最後の二ページを残して一息つく。たった数枚のプリントだとしても、知らない知識をここぞとばかりにぶつけられると流石に疲れる。

 休憩とるためリビングに向かうと、明かりがついていなかった。リビングの消灯時間は零時だ。私はそこで日にちが既に変わっていることに気が付いた。意外と長い間机に向かっていたらしい。台所で水道水をコップ一杯飲んでから自室に戻る。いつもならばそろそろベッドに入るのだが、残り二ページなら辞書を引きながらでも、後一時間もあれば読めてしまえそうだ。

 私は再び机に向かい、クリップで止められたプリントのページを捲る。

「ん?」

 私は、またびっしりと文字を詰め込んでいるのだろうと勝手に予想していたため、そのページを見て、少し拍子抜けした。

「『次のページで私の全てをお伝えします』ぅ?」

 そのページにはその一文しかプリントされていなかった。私は疑問や疑念をその短い一文に抱かずにいられなかった。全てって、そんなA4用紙一枚に収まるものなのか?そんなことを思いながらページを捲る。

 そして、ページを捲ったところで私は再び拍子抜けすることになる。

「何も書いてないじゃん……」

 最後のページには何も記されていなかった。いや、よく見れば紙の右上には小さく『表』と手書きで記されている。

「印刷ミス? インク切れ?」

 そう思ったが、きっとそうではない。中学の課題をするためにインターネットで開いたページを印刷していた際、途中でインクが切れてしまった経験がある。しかし、その時は印刷できなくなってしまったページの前のページは、とてもうっすらとした文字になっていた。インクが切れかけている時に印刷物はしばしばはこうなる。だが、御状さんから貰ったプリントはここまで一度も掠れたりはしておらず、しっかりとプリントされていた。もちろん、このページだけ後から印刷しており、その間に誰かがインクを切らしてしまったという可能性がないわけではない。ただ、たった一枚印刷するくらいならば、ちゃんと印刷されているか確認しないだろうか。いや、間違いなく確認したはずだ。その証拠に紙には『表』と手書きで書かれている。それに、『表』と書いてあるあたり、何かの意図を感じないわけではない。

 それとも、これは何かの暗示だろうか。私の人生は純白ですとでも言いたいのだろうか。もしそうなのだとしたら、そんなのは周囲の人間によって真っ黒に染め上げられてしまった人生を歩んできた私への皮肉であり、たちの悪い嫌がらせだ。

 ただ、そんなことを御状さんがするだろうか。もちろん、私はまだ御状さんのことを全面的に信用しているわけではないし、信用に値するようなことをしてもらったわけでもない。そもそも、私はもう簡単に人間を信用できるような人間ではない。けれど、こんなことをして彼女にメリットがあるとも思えない。私が疑心暗鬼になっている可能性も十分にある。

 何か仕掛けがあるのかもしれない。

 私は紙を凝視する。しかし、やはりそこには何も書かれていない。電気の明かりで紙を透かしてみても、文字が浮かび上がるわけでもなかった。私はそれから思いつく限りのことをしてみたが、やはり、それはどこまでも白紙でしかないように思えた。

 だが、それは私の大きな勘違いだった。

「もう、なんなのこれ……」

 悪態をつきながら紙を眺めてベッドに倒れこむ。私が勘違いだったと気づいたのはその時だ。


 紙の中で何かが蠢いた。


「うわっ!?」

 私は驚きのあまり紙を手放し、飛び起きる。深夜だというのに大きな声が出てしまったことに気づき、慌てて口を両手で押さえる。

「何……これ……」

 恐る恐る落とした紙を摘み上げる。出来るだけ顔から遠ざけながら、再び『表』と書かれた方を向けた。

 紙は白紙だった。

「見間違え?」

 確かに紙の中で何かが動いたような気がした。

「疲れてるのかな?」

 目を擦り、目を細めて紙を眼前にゆっくりと近づける。そして、紙が私に再接近したその時、再び紙の中で何かが蠢いた。

「わ!?」

 再び放り投げるように紙を放す。確かに見た。間違いない、紙の中で何かが動いている。

 その後、私は怖いもの見たさのような心理状況から、紙を拾っては放すという、誰かが見ていれば間違いなく奇妙に思われるだろう行動を繰り返した。



 やっとその事実に慣れ、紙を凝視できるようになったのは、深夜の一時を回る寸前だった。

「何なの、これ? どんな仕掛け?」

 慣れた頃にはもう白紙だと思っていたものは完全に白紙には見えなくなっていた。紙の中では今でも何かが表現しがたい動きをしている。とても不思議だ。そして、その不思議な現象を眺めれば眺めるほど、さらに不思議は増していく。摩訶不思議である。

 私に認識できるのは紙の中で何かが動いているということだけだった。なんだろうか、動いているというのは分かるのだが、それ以外の解析ができない。
動いているものは赤色にも見えるし、青にも見える。黒にも見えるし白にも見える。何色にも見えるのだが、何色にも見えない。

 動きに規則性があるように見えるが、ないようにも感じる。
紙一面を使って動き回っているようにも見えるし、紙の端で小さく動いているだけのようにも見える。

 動いているものは一本の線のようにも見えるし、何個もある点の様にも見える。
何かの文字にも見えるし、何かの絵にも見える。

 言ってしまえば、どんな風にも見えるし、どんな風にも見えない。無限の矛盾が広がっているようにも見えるし、無限の真理が広がっているようにも見える。見れば見るほど奇妙だった。

 私はいつの間にか、その何かが蠢く紙から目が離せなくなっていた。

私がその紙から解放されたのは誰かに肩を揺すられた時だった。ハッとして顔を後ろに向ける。
「何してるの?」
 私の後ろに立っていたのは今村さんだった。私はとっさに持っていた紙をベッドの下に隠す。何故だろうか、この紙を誰にも見せたくない、私だけのものにしたいと反射的に身体がとった行動だった。
「な、なういおああッ!?」
 今村さんの顔が歪む。それもそうだろう。口が上手く動かない。いや、口だけではなく、顔の筋肉全体が激しく痛んだ。頭も熱湯を注がれたかのように痛む。
「どうしたの!?」
 私の顔を見た瞬間、今村さんの表情が心配の色に変わった。今村さんが私の額に手を当てる。
「顔がパンパンよ。泣いてたの? あら、熱もある。ちょっと待ってなさい。あと、今日は学校休みなさい、連絡しとくから」
 ベッドに寝かされ、今村さんは忙しく部屋から出ていった。
窓からは太陽の光が差し込んでいた。いつの間に朝になっていたのだろう。全く気付かなかった。私は目覚まし時計を確認する。現在午前七時過ぎ。かれこれ六時間以上、紙を見ていたことになる。私には六時間もノンストップであの紙を見ていたという実感がない。ほんの一瞬の事だったように思う。
 ただ、身体は正直だ。ベッドに横たわるとすぐに猛烈な眠気が襲ってきた。私は、今村さんが来るのを待たずに眠りに落ちた。

 沢山の夢を見た。
 ある夢では私を抱く女性が、優しく私を見つめて微笑んだ。
ある夢では、男性が私の持ってきた百点に喜び、頭を撫でた。
ある夢では、私を苛める奴から守ってくれる夢の中の私より少し大きな男の子がいた。
そして、皆は私を送葉と呼んだ。
 夢の中の私は私の思うようには動かず、奇想天外な行動を繰り返していたが、そこには私が憧れる理想で溢れていた。
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