memory refusal,memory violence
証拠
乃風さんが仕事に戻ったところで僕たちは場所を変えることにする。乃風さんには悪いが、乃風さんがいるところでは落ち着いて話ができそうもない。場所は、たよりから一番近いところに住んでいる僕の家になった。
ワンルームの部屋に入ると、乃風さんは「久しいです」と言った。僕はこの言葉に対する反応に困り、その言葉を無視する形になってしまう。ただ、掃除をしておいて良かったとは思った。
コップだけが乗った丸机を三人で囲む。けれど、会話はなかなか始まらない。移動中に何を話そうか考えていたが、思い浮かばなかった。いつもは饒舌な綾香も同様に言葉を選びあぐねている。送葉(仮)さんは部屋をキョロキョロと眺めている。この問題は僕たちだけでは手に余るのかもしれないと今更怖気づきそうになる。
「写真、まだ置いてくれてるんですね」
突然、送葉(仮)さんが棚の上に置いてある写真を見ながらぽつりと言う。
「ああ……うん」
「嬉しいです」
「写ってるのは君じゃないよ」
「中は私と同じですから」
送葉(仮)さんは変わらない。ただ、自然に送葉を演じている。慈しむように写真を見つめる送葉(仮)さんを見ていると、昨日見た夢がふと頭に蘇った。
送葉が振り返る直前、僕は寸でのところで目が覚めた。けれど、僕は振り返った送葉がどうなっているのかを知っている。代わっているのだ。振り返った送葉は送葉(仮)さんになっている。見ていないけれど、確信がある。夢は時に自分が抑えている願望を映し出す。僕はもしかしたらこの子が本当に送葉だったらいいとでも思っているのだろうか。なら、この願望はやはり僕にとって危険なのは言うまでもない。人としても危険な思考なんじゃないだろうか。
「乃風さんがさ」
そんなことを思っていると綾香が自分の肩を撫でながら口を開いた。
「この子を送葉と間違えたじゃん?」
「うん」
「横顔が送葉に似てるって言ってたけど、似てないよね」
綾香が送葉(仮)さんの横顔を見ながら言う。
「うん」
僕も綾香に倣って送葉(仮)さんの横顔を見る。送葉(仮)さんは「あんまり見られると恥ずかしいです」と照れたが気にしない。確かに、顔だけを見れば送葉と送葉(仮)さんの顔は似ているとは言えない。二人とも整った顔立ちをしているけど、二人の顔は系統が違う。送葉は切れ長の目をしていて左目の下には涙ぼくろがある。送葉(仮)さんの目は縦に大きく、涙ぼくろはない。送葉はどちらかと言えばすっとした顔をしているが、送葉(仮)さんは丸顔だ。細かいパーツを見ていっても似ているところは少ないような気がする。
「なら、なんで間違えたんだと思う?」
「雰囲気とかかな。服とかの」
「確かにそうだけど、死んだ送葉と間違えるのは考えにくくない?」
「まぁそうだね。でも、ついって言ってたし」
「つい口に出してしまうほど似て見えたんじゃないかな」
「どうだろ」
「もしそうなら……」
綾香は躊躇したのか、少しの間を挟んだが再び口は動かす。
「送葉(仮)さんは本当に送葉なんじゃないかな」
綾香は、僕たちが今まで避けてきた恐ろしい見解を口にした。
「ま、待ってよ。そう決めるのはまだ早すぎるだろ。いきなりどうしたんだよ、さっきまであんなに認めがらなかったのに」
「あの時はまだ確信がなかった。でも、この子のことを何も知らない乃風さんが間違えたのよ。偶然とは思えない」
「でも綾香がそう思ってるだけで、偶然かもしれないじゃないか」
「昨日さ、この子と話したんだよ」
「話したって何を」
「思い出話です」
その質問には綾香ではなく、送葉(仮)さんが答えた。
「この子さ、全部知ってるの。私と送葉しか知らないようなこととかさ、私でも忘れてるようなこととか。それに、どこかでボロが出るんじゃないかと思って大学とか心理学の話もした。でも、心理学の事なんか私より詳しいよ。それはもう送葉の如く天才的。ぶっ飛んだ発想をするあたりもそっくり。ただ知らないのは、送葉が死んだあの日のことだけだよ。逆にリアルじゃない」
「僕たちはまだ送葉(仮)さんと会って一日しか経ってないじゃないか」
「一日でこんなに送葉を感じさせられるとは思わなかった」
全身から焦りがジワリと滲み出す。綾香だけは意見を曲げないと思っていた。その強い正義感でそれを認めないと思っていた。だから僕は綾香に相談した。自分では自信がなかったから送葉(仮)さんを綾香に預けた。僕は綾香のことをある種、命綱だと思っていたのだ。綾香が認めなければ僕もきっと認めないでいられる。送葉を留めていられる。だけど、その綾香が今、送葉(仮)さんを本当の送葉じゃないかと疑いだした。
焦りが増すのに比例して全身から嫌な汗が滲む。心臓が脈を早める。コップを握ることで震える手を諌(いさ)めようとしたが、コップの中身が波を打つ。千切れかけの命綱で高いところに吊るされている気分だ。
探せ。探せ。
僕は必死に頭を回転させる。どこかにあるはずだ。送葉(仮)さんが送葉ではないと言える証拠が。
探せ、探せ、掘り起こせ。脳みその奥底から記憶を掘り起こせ。
あ……。
あるじゃないか。たった数時間前に一つ見つけたじゃないか。記憶の断層に今さっき加えられた新しい証拠が。
僕は思い出した。
「絵は?」
「え?」
「『たより』に飾ってある絵だよ。さっき座ってた席のすぐそばにあった。あれは送葉が描いた物のレプリカだって言っただろ。レプリカだとしても普通、あんなに近くにあれば自分の絵に気付くはずだ」
「気付いてましたよ」
「え……」
必死な僕に対し、送葉(仮)さんは冷静に僕の意見を覆す。その一言に、表情に、温度差に面喰い、僕は再び言葉を失う。そんな僕を見て送葉(仮)さんは「気付いてましたよ」ともう一度、微笑みながら言った。
その笑顔は自信で満ちていてた。
「嘘だ。嘘をつくなよ。昨日も言ったじゃないか。すぐにばれる嘘はつくもんじゃないって」
「私はすぐには信じてもらえない真実だと昨日言いました」
送葉(仮)さんは笑顔だ。送葉とそれと何ら変わらないその笑顔は、僕に更なる恐怖感を抱かせる。
「証拠はどこにあるんだよ」
そんなことを訊いても無意味なのはわかっていた。きっと、送葉(仮)さんは証拠を提示する。けれど、僕はもう一縷の望みに縋るしかなかった。
「証拠はですね~」
まるで、僕の反応を面白がっているような送葉(仮)さんに迷いはない。僕は耳を塞ぎたい思いでいっぱいになる。命綱はもう僕の重みに耐えられない。
「時間を下さい」
綾香が「は?」と声を漏らした。僕も同じような声が出たかもしれない。
送葉(仮)さんはその場では証拠を提示できないらしい。一縷の望みは依然として細く、頼りないが、何とかその場しのぎという形で繋がったのだろうか。なんだか拍子抜けしてしまい、全身の力が一気に抜けてしまった。
「時間を下さいって……」
「絶対的な証拠を提示するには時間が必要です」
「そんなのダメに決まってるじゃないか。君ならどうとでも辻褄を合わせられるだろ」
送葉(仮)さんが本当に送葉であるのか、それとも送葉でないのかは別として、彼女には送葉を演じるだけのスキルがある。彼女なら証拠の一つや二つは簡単にでっち上げられるはずだ。
「だって、口で説明したところで伝達さんは、百パーセントは信じてくれないと思うんです。そんなのは伝達さんを今以上に苦しめるだけです。そんなのは私の望むことではありません」
「じゃあ、僕が君に時間を与えたら、君は何をするっていうんだよ」
「この部屋にある本物の描きかけを完成させます」
「本物を完成させる?」
「はい、絵はここにありますよね?」
「まぁ……」
「やっぱり。喫茶店で乃風さんを見てからここにあると確信していました。それを私に託してください」
「そんなことはできないよ」
「もともとは私の絵です」
「もともとは君の言う、もう片方の送葉のでしょ」
「彼女のものは私のものです」
「ジャイアンみたいなこと言うなよ……」
「とにかく、絵を返してください。それで全てが解決します」
「嫌だよ」
「渡してください」
「嫌だ」
僕と送葉(仮)さんの押し問答はそれからしばらく続く。一見、じゃれ合いにも見えなくもないかもしれないが、僕はこの絵を絶対に渡すわけにはいかなかった。この絵に手を加えられたくなかったのもあるが、送葉(仮)さんはこの絵があれば証拠を示せると自信をもって言った。もし本当に送葉(仮)さんがこの絵を完成させることで、全てを解決できるのだとすればもう後には引けなくなる。僕の中で微妙なバランスを保っている送葉があっけなく瓦解してしまうかもしれない。解決することで全てが平和になるわけではない。リスクを考えれば当然了承することはできない。ここは僕にとっての分水嶺だ。甘受は出来ない。
ワンルームの部屋に入ると、乃風さんは「久しいです」と言った。僕はこの言葉に対する反応に困り、その言葉を無視する形になってしまう。ただ、掃除をしておいて良かったとは思った。
コップだけが乗った丸机を三人で囲む。けれど、会話はなかなか始まらない。移動中に何を話そうか考えていたが、思い浮かばなかった。いつもは饒舌な綾香も同様に言葉を選びあぐねている。送葉(仮)さんは部屋をキョロキョロと眺めている。この問題は僕たちだけでは手に余るのかもしれないと今更怖気づきそうになる。
「写真、まだ置いてくれてるんですね」
突然、送葉(仮)さんが棚の上に置いてある写真を見ながらぽつりと言う。
「ああ……うん」
「嬉しいです」
「写ってるのは君じゃないよ」
「中は私と同じですから」
送葉(仮)さんは変わらない。ただ、自然に送葉を演じている。慈しむように写真を見つめる送葉(仮)さんを見ていると、昨日見た夢がふと頭に蘇った。
送葉が振り返る直前、僕は寸でのところで目が覚めた。けれど、僕は振り返った送葉がどうなっているのかを知っている。代わっているのだ。振り返った送葉は送葉(仮)さんになっている。見ていないけれど、確信がある。夢は時に自分が抑えている願望を映し出す。僕はもしかしたらこの子が本当に送葉だったらいいとでも思っているのだろうか。なら、この願望はやはり僕にとって危険なのは言うまでもない。人としても危険な思考なんじゃないだろうか。
「乃風さんがさ」
そんなことを思っていると綾香が自分の肩を撫でながら口を開いた。
「この子を送葉と間違えたじゃん?」
「うん」
「横顔が送葉に似てるって言ってたけど、似てないよね」
綾香が送葉(仮)さんの横顔を見ながら言う。
「うん」
僕も綾香に倣って送葉(仮)さんの横顔を見る。送葉(仮)さんは「あんまり見られると恥ずかしいです」と照れたが気にしない。確かに、顔だけを見れば送葉と送葉(仮)さんの顔は似ているとは言えない。二人とも整った顔立ちをしているけど、二人の顔は系統が違う。送葉は切れ長の目をしていて左目の下には涙ぼくろがある。送葉(仮)さんの目は縦に大きく、涙ぼくろはない。送葉はどちらかと言えばすっとした顔をしているが、送葉(仮)さんは丸顔だ。細かいパーツを見ていっても似ているところは少ないような気がする。
「なら、なんで間違えたんだと思う?」
「雰囲気とかかな。服とかの」
「確かにそうだけど、死んだ送葉と間違えるのは考えにくくない?」
「まぁそうだね。でも、ついって言ってたし」
「つい口に出してしまうほど似て見えたんじゃないかな」
「どうだろ」
「もしそうなら……」
綾香は躊躇したのか、少しの間を挟んだが再び口は動かす。
「送葉(仮)さんは本当に送葉なんじゃないかな」
綾香は、僕たちが今まで避けてきた恐ろしい見解を口にした。
「ま、待ってよ。そう決めるのはまだ早すぎるだろ。いきなりどうしたんだよ、さっきまであんなに認めがらなかったのに」
「あの時はまだ確信がなかった。でも、この子のことを何も知らない乃風さんが間違えたのよ。偶然とは思えない」
「でも綾香がそう思ってるだけで、偶然かもしれないじゃないか」
「昨日さ、この子と話したんだよ」
「話したって何を」
「思い出話です」
その質問には綾香ではなく、送葉(仮)さんが答えた。
「この子さ、全部知ってるの。私と送葉しか知らないようなこととかさ、私でも忘れてるようなこととか。それに、どこかでボロが出るんじゃないかと思って大学とか心理学の話もした。でも、心理学の事なんか私より詳しいよ。それはもう送葉の如く天才的。ぶっ飛んだ発想をするあたりもそっくり。ただ知らないのは、送葉が死んだあの日のことだけだよ。逆にリアルじゃない」
「僕たちはまだ送葉(仮)さんと会って一日しか経ってないじゃないか」
「一日でこんなに送葉を感じさせられるとは思わなかった」
全身から焦りがジワリと滲み出す。綾香だけは意見を曲げないと思っていた。その強い正義感でそれを認めないと思っていた。だから僕は綾香に相談した。自分では自信がなかったから送葉(仮)さんを綾香に預けた。僕は綾香のことをある種、命綱だと思っていたのだ。綾香が認めなければ僕もきっと認めないでいられる。送葉を留めていられる。だけど、その綾香が今、送葉(仮)さんを本当の送葉じゃないかと疑いだした。
焦りが増すのに比例して全身から嫌な汗が滲む。心臓が脈を早める。コップを握ることで震える手を諌(いさ)めようとしたが、コップの中身が波を打つ。千切れかけの命綱で高いところに吊るされている気分だ。
探せ。探せ。
僕は必死に頭を回転させる。どこかにあるはずだ。送葉(仮)さんが送葉ではないと言える証拠が。
探せ、探せ、掘り起こせ。脳みその奥底から記憶を掘り起こせ。
あ……。
あるじゃないか。たった数時間前に一つ見つけたじゃないか。記憶の断層に今さっき加えられた新しい証拠が。
僕は思い出した。
「絵は?」
「え?」
「『たより』に飾ってある絵だよ。さっき座ってた席のすぐそばにあった。あれは送葉が描いた物のレプリカだって言っただろ。レプリカだとしても普通、あんなに近くにあれば自分の絵に気付くはずだ」
「気付いてましたよ」
「え……」
必死な僕に対し、送葉(仮)さんは冷静に僕の意見を覆す。その一言に、表情に、温度差に面喰い、僕は再び言葉を失う。そんな僕を見て送葉(仮)さんは「気付いてましたよ」ともう一度、微笑みながら言った。
その笑顔は自信で満ちていてた。
「嘘だ。嘘をつくなよ。昨日も言ったじゃないか。すぐにばれる嘘はつくもんじゃないって」
「私はすぐには信じてもらえない真実だと昨日言いました」
送葉(仮)さんは笑顔だ。送葉とそれと何ら変わらないその笑顔は、僕に更なる恐怖感を抱かせる。
「証拠はどこにあるんだよ」
そんなことを訊いても無意味なのはわかっていた。きっと、送葉(仮)さんは証拠を提示する。けれど、僕はもう一縷の望みに縋るしかなかった。
「証拠はですね~」
まるで、僕の反応を面白がっているような送葉(仮)さんに迷いはない。僕は耳を塞ぎたい思いでいっぱいになる。命綱はもう僕の重みに耐えられない。
「時間を下さい」
綾香が「は?」と声を漏らした。僕も同じような声が出たかもしれない。
送葉(仮)さんはその場では証拠を提示できないらしい。一縷の望みは依然として細く、頼りないが、何とかその場しのぎという形で繋がったのだろうか。なんだか拍子抜けしてしまい、全身の力が一気に抜けてしまった。
「時間を下さいって……」
「絶対的な証拠を提示するには時間が必要です」
「そんなのダメに決まってるじゃないか。君ならどうとでも辻褄を合わせられるだろ」
送葉(仮)さんが本当に送葉であるのか、それとも送葉でないのかは別として、彼女には送葉を演じるだけのスキルがある。彼女なら証拠の一つや二つは簡単にでっち上げられるはずだ。
「だって、口で説明したところで伝達さんは、百パーセントは信じてくれないと思うんです。そんなのは伝達さんを今以上に苦しめるだけです。そんなのは私の望むことではありません」
「じゃあ、僕が君に時間を与えたら、君は何をするっていうんだよ」
「この部屋にある本物の描きかけを完成させます」
「本物を完成させる?」
「はい、絵はここにありますよね?」
「まぁ……」
「やっぱり。喫茶店で乃風さんを見てからここにあると確信していました。それを私に託してください」
「そんなことはできないよ」
「もともとは私の絵です」
「もともとは君の言う、もう片方の送葉のでしょ」
「彼女のものは私のものです」
「ジャイアンみたいなこと言うなよ……」
「とにかく、絵を返してください。それで全てが解決します」
「嫌だよ」
「渡してください」
「嫌だ」
僕と送葉(仮)さんの押し問答はそれからしばらく続く。一見、じゃれ合いにも見えなくもないかもしれないが、僕はこの絵を絶対に渡すわけにはいかなかった。この絵に手を加えられたくなかったのもあるが、送葉(仮)さんはこの絵があれば証拠を示せると自信をもって言った。もし本当に送葉(仮)さんがこの絵を完成させることで、全てを解決できるのだとすればもう後には引けなくなる。僕の中で微妙なバランスを保っている送葉があっけなく瓦解してしまうかもしれない。解決することで全てが平和になるわけではない。リスクを考えれば当然了承することはできない。ここは僕にとっての分水嶺だ。甘受は出来ない。