memory refusal,memory violence

また会える日まで

 太陽は完全に沈み、澄んだ空気の上からは皓々(こうこう)と月の光が降り注ぎ、星も月に負けないくらいに己の存在を主張している。

 秋のそよ風が僕たちを優しく撫ぜる。

 僕と送葉は月明かりに当てられた橋からの景色を眺めた。

「頭、痛くないですか?」

「痛いよ。今にもぶっ倒れそうだ」

 二人の送葉が持っていた全ての記憶を一気に頭に入れたのだ。正直、橋の柵にもたれながら立っているのがやっとだった。

「少々無理をさせてしまいましたね」

「いいよ。今ここで残された時間を送葉といられることの方が倒れることよりもよっぽど価値がある」

「私が始めた実験と言っても、少し寂しいです」

「そんな心配はいらないだろ」

 キャンバスの白は、ただ送葉の記憶を映し出すだけのものではなかった。僕たちの記憶は消える。僕だけではなく、送葉の記憶も消える。僕たちが出会ってからの僕たち二人に関する記憶は全て消える。今、この瞬間の記憶も消える。送葉が一度死んだ記憶でさえ、僕たちは忘れてしまう。罪悪感がないと言えば嘘になる。送葉が今もこうして生きているのは事実だが、人が一人死んでしまったということには変わりない。

 それでも、送葉の実験を完遂させるには、運命を確認するにはこれが最善なのだ。

「記憶が無くなってからの矛盾はどうする? 結構困ると思うんだけど」

「そんなもの、どうとでもなります。いいえ、どうにでもなれです」

「適当だな」

「矛盾がまた私たちを導くのなら、それもまた運命ですよ」

「まぁ、それもそうか」

「私たちがまた結ばれた際に、それが運命だったと分かるように証を作りましょう」

 脈絡のない会話も、今はもう心地良い。

「どうするの?」

「こうするんです」

 送葉はスカートのポケットから一本の釘を取り出した。そして、その釘を使って橋の手摺に何かを掘っていく。それは僕と送葉の名前が入った相合傘だった。

「なるほどね」

「運命的な出会いをした際にはまたここに来ましょう。いえ、記憶が無くなってしまいますが、きっと来ます」

「それはいいね。賛成だ」

 それから僕と送葉は時間いっぱいまで無意味で幸せな時間を共有した。



「そろそろ行こうか」

 頭を手で抑えながら僕は送葉に告げる。脳がさっきから悲鳴をあげている。送葉となるべく長く一緒にいられるように努力したつもりだが、いよいよ限界だ。

「すみません。付き合わせてしまって」

「好きで付き合ってるんだから気にすることないよ」

「肩、貸します」

 僕は送葉の力を借りて車まで戻る。いよいよ別れの時間だ。

「キャンバスは私が責任をもって処理しておきます」

「うん」

「休む場所を提供できないのは心苦しいですが、車でしっかり休んでから帰ってください。ここで事故をして死んでしまわれたら本末転倒です。記憶はまだ数日はもつと思います」

「うん」

「最後に一つ言っておきたいことがあります」

 頭痛のせいで頷くことさえままならなくなってきた。

「ダイヤモンドリリーの花言葉で言ってなかったことがあります。もう知っているとは思いますが」

 僕は視線で頷く。

「また逢う日を楽しみにしています」

 僕は笑えているだろうか。頭痛のせいで上手く笑えている自信がない。けれど、送葉には伝わったのだろう。麗しいその顔で微笑み返してくれた。

「それでは、また逢えるその日まで」

 そう言って、送葉は運転席に力なくもたれる僕の唇にキスをした。その優しい感触を感じながら、キャンバスを片付けるために橋へ戻っていく送葉の背中を見つめながら、僕の意識は徐々に遠のいていく。
< 49 / 54 >

この作品のキーワード

この作品をシェア

pagetop