記憶のカケラ
バンッと音がして、誰かが入ってきたのがわかった。
はじめに目に飛び込んできたのは、鮮烈な赤色。
目線をもう少しだけ遠くにやれば、大好きだったような人が倒れていた。
「は ......?」
わけがわからないまま困惑しきった自分の声が、薄暗い部屋に響く。
次に聞こえてきたのは、透き通った女の声。
初めて聞いた、綺麗な声に、感じたのは戸惑い。
「あなたが や ったの?」
ぼくは答えない。わからない。だから...
「そう....なの、かな......?」
「私が聞いているのよ」
ため息混じりの声が落とされた。
そうしてもう一度同じ質問が繰り返された。
あまりにも確信を持った声音で言われるものだから、ああ、そうなのか、そう思えてきた。
「ぼくが、やったんだね、きっと。」
ハハッ..... ぼくは振り返って、力なく笑った。
わからない。わからない。わからないことが多すぎる。ぼくがやったの?なんで?なんで?なんで?
すると、女が驚くことを言った。
「なんで泣いてるのよ……?」
困惑しきった声が鼓膜を震わす。ぼくのじゃない。なら、これはさっきの女の声。
困惑したいのはこっちだ。訊きたいのはこっちだよ。
だって……、
「は…?泣いてる?誰が?ぼくが?なんで?」
ぼくは笑ったんだよ。笑ったはずなんだ!
『ハハッ…』 笑うぼくの声を、確かに聞いた。
でも.....なのに!
「なんで?」
頬に触れた指先についた滴は、紛れもなく涙。
おかしい、おかしい。ぼくは泣いていない。悲しくなんてない。
だから....
「ぼくは……、泣いてなんかない」
「泣いているじゃない」
間髪いれずに返ってきた回答に口をつぐむ。
コツッ… と、薄暗い部屋に音が響いた。
「何がそんなに悲しいのよ」
カツッ… また、音がする。
「ねぇ、顔をあげて、こっちを見なさい」
「いやだ」
もう、女はぼくのすぐ目の前に立っている。
少し動けば触れられる距離に、僕は動かない。動けない。動きたくない。
さわらないで。もう、ぼくを傷つけないで。
そして、もう一度、ポツリと言葉をこぼした。
「いやだよ……」
我ながら、泣きそうな声だと思った。今にも消えそうな声だと思った。声になったのかわからないくらいに、震えて、掠れて、微かな音だった。
「大切な人だったの?」
少し間を開けてから、そっと落とされた声は、優しげに聞こえた。
けれど、ぼくにはそんなの、ぼくはただただ困ってしまっただけだった。
大切な人であるべき立場の人間だったはずだ。知ってる。わかってる。服に隠れた紫が痛んだ。
痛い、痛いよ。……ああ、違う。間違えた。痛くない、痛くない。平気だ、平気。
ぼくが黙っていると、彼女はまた質問を重ねた。
「愛していたの?」
「わからないよ、そんなの。」
やっと言えた答えは、そんなもの。答えとも言えないような答え。
でも、彼女は気にしていない様子で、
「どうしてこんなことをしたの?」
なんて聞いてきた。
そんなの、ぼくが知りたいよ。……いや、違う。答えは明白。
「彼が嫌いだったの?」
少し考えて、首を横に振った。
「わかんないけど、きっと、嫌いではなかったよ。」
「大切だったのね」
「……そう、だったのかなぁ?」
ぼくは首をかしげる。
「きっと、そうなんだよ。」
女の言葉に、ぼくは心の内で否定した。
そんなわけないじゃないか。
しばらくの沈黙のあと、また彼女が口を開いた。
「……ねえ、なんで、こんなことしたの?」
僕も、しばらく考えて、やっと答える。
「……大好きだったんだよ。」
「やっぱり、愛していたのね」
「そう……、なのかな。」
やっと出た声は、今にも消えそうな情けない声だった。
その声にすがりたかった。ぼくは悪くない。
また、頬に温かいものが流れ落ちていくのがわかった。
ガシャンと音がして手に冷たいものが当たった。
鉄の輪が両手の自由を奪っていた。
背を押されて歩いて。
………なんとなく、きいてみた。
「ねえ、今度はあなたが愛してくれるの?」
一瞬目を見開いたあと、
「残念ながら、君の担当は私じゃないのよ」
なんて、答えが返ってきた。
「ねぇ、暴れてみてもいい?」
「ダメに決まってるでしょ」
「じゃあ、叫んでみてもいい?」
「それもダメよ」
「そっかぁ。大切な人が死んだのに、泣き叫ぶことも許されないんだね。」
なんとなく、悲しい気持ちになった気がしたから、口角をあげて、ちょっとだけ笑ってみた。
…………乾いたような笑い声しか出なかったけれど。
そんなぼくを彼女は、変なものを見るような目で見ていた。
でも今は、そんな視線もどうってことなかった。外に出られる解放感に、涙を流し、浸っていた。
………ああ、外だ
目の前を吹き抜けた風に、ぼくが溶けて消えた気がした。