眠りの森のシンデレラ
あの頃は幸せに包まれていた……。
それを地獄に変えたのは、ライバルだったダンサーの罠と恋人の裏切り。
結局、二度と舞台に立てなくなった。
『絶望』あの頃の薫を表現するに相応しい言葉が……それだ。
バレエができなくなった薫は、持て余した暇を趣味のお菓子作りに当てた。
そんな薫を眠りの森に誘ったのは、製菓教室で知り合った風子だ。
「貴方は傷付いているのね。眠りの森にいらっしゃい。貴方の作るドルチェは癒しの味がするわ。だから、そこで作ってくれない? ある少女のために……彼女を癒すために」
傷付いた自分が、何故、他人を癒さなければいけないのだろう? 疑問に思いつつも、薫は何故か風子に逆らえなかった。だから、誘われるまま眠りの森に身を寄せた。
その数か月後だった。風子が交通事故で亡くなったのは……。
彼女は自分の死期が近いのを感じていたのかもしれない。
薫は彼女の言葉を遺言のように、眠りの森でお菓子を作り続けた。
そのうち、風子が何故自分をここへ……眠りの森に……誘ったのかが分かった。
バニラの香りは、緊張を和らげたり、幸せな気分にしてくれたり、後ろ向きな気分を前向きな気持ちにしてくれたりする。
だから風子は、眠りの森から甘い香りを無くしたくなかったのだ。
琶子のためにも、これから入居する住人たちのためにも。
そしてもう一つ、琶子が自作の品を食べるたび、笑顔を浮かべるたび……彼女を癒している自分が、実は彼女に癒され、元気を貰っているのだ、と分かった。
風子には、初めからそれが分かっていたのだ。
薫の中に、もう『絶望』という言葉はない。琶子のお陰だ……。
薫は当時と変わらぬ琶子の笑みを思い浮かべ、フッと笑を零す。
「だからねっ、ちょっと、薫、聞いてる!」
かなり大トラになった登麻里がペチペチ薫の背を叩く。
「もし琶子に何かあったら、いくら金成さんの言葉でもアイツを八つ裂きにしてやるんだから! 分かった!」
登麻里の言葉に、薫は頷く。
「当たり前でしょう、その時は私も共犯よ!」
二人はガッチリと手を握り、大きな月に向かって意味不明の雄叫びを上げた。
その翌日、薫は酒豪登麻里の初二日酔いを見た。
あの姿は、最低で最高に可笑しかった!
バニラの香りに包まれたキッチンで、薫はクスッと笑い、スフレを美味しそうに頬張る琶子に目を細める。