眠りの森のシンデレラ
琶子がドアを開けると、ヒンヤリとした空気がキッチンに流れ込む。
「芳醇で上質な香り……」
「そうなんです。毎回、この匂いだけで酔いそうです」
清は回顧の念を催し、在りし日の父を思う。
しかし、この間まで感じていた、悲壮なまでの悲しみや痛みは襲ってこない。
琶子が階段の電気をつけ、先を行く。
華奢な背中だ。この腕で抱き締めたら折れてしまいそうだ、と代りに不埒な思いが湧き上がる。
「ワインを探すのも、地下室も苦手ですが、この地下室は好きです」
清がそんな思いを抱いているとも知らず、階段を下りる琶子はリラックスしているのか、この間より、少しおしゃべりで愉し気だ。
「私が知っている地下って、大抵埃っぽくてカビ臭いんです。でも、ここは空気が澄んでいて……落ち着きます」
トンと地下の床に降りると、琶子は洞窟のような入り口の前で立ち止まり、部屋のスイッチを入れる。
「それに、この部屋を見たら、誰だってこの場所が好きになります」
クルリと振り向くと、右腕を部屋に向かって大きく広げる。その先には……。
古煉瓦で囲まれた部屋全体に、天井までのワインラックが並行に七列。そこにワインボトルが隙間なく行儀良く並ぶ。
確かに……清は口角を上げる。
温かで落ち着いた電球色の光。その光がガラス瓶に反射し、地下部屋が幻想的で美しい世界に変わる。
さしずめ、コイツには物語のような異世界空間にでも見えているのだろう。琶子のウットリとする瞳に清の口角が上がる。