何度でもあなたをつかまえる
それは、魔法の言葉だった。

かほりは、かつて自分がどれだけバロック音楽に夢中だったかを、改めて思い出した。


もちろん今も、一生懸命やっている。

でも、雅人と知り合ってからは、たぶん、雅人と一緒にいるための手段として、音楽に必死に取り組んでいたような気がする。

純粋に、好き、という気持ちを忘れて……。


いや、ちょっと違う。

かほりの「好き」は、すべて雅人に注がれていたのかもしれない。




その夜、久しぶりにクラヴィコードを弾いてみた。

中学生の雅人が、かほりのために作って、プレゼントしてくれた、大切な思い出の逸品だ。

雅人のこだわりと愛情の象徴のような存在。

……なのだが……これが、ものすごく、やっかいなシロモノだ。


クラヴィコードとは、オルガンやチェンバロを小さな箱形に圧縮したような楽器で、ノートパソコンのように卓上に置いて弾く。

全て木でできているため、日本の四季には適合せず……冬の乾燥にも、梅雨から夏の湿気にも、故障を来たす。


もっとも、かほりが学んでいるチェンバロも季節で音が変わるし、弾く前に必ず調律が必要なナイーブな楽器だが……手作りのクラヴィコードはそんなもんじゃない。

弦が伸びても切れても、調律するか、交換すればいいだけのこと。

でも、鍵盤が上がらなくなると、かほりではお手上げだ。

製作者の雅人にお願いして、鍵盤の側面をやすりで削ったり、鍵盤の裏の穴を大きくしたりと、もはや修理と呼ぶレベルのメンテナンスが必要になってくる。


チェンバロが弦を弾いて音を出すのに対し、クラヴィコードはタンジェントと呼ばれる真鍮の柱を突き上げて弦を振動させている。

弦を打って音を出す原理はピアノと同じだが、ピアノは鍵盤を押すと同時にハンマーが弦を打って元の位置に戻ってくれるのに対して、クラヴィコードは鍵盤を押している間はずっとタンジェントが弦に触れ続けて、弦は振動したまま音を鳴らし続ける。

そのため、鍵盤が上がりにくくなると、まるでバグパイプのようにいくつもの音が不協和音を生み出してしまう。

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