何度でもあなたをつかまえる
雅人は、ほとんど何も入ってない財布と、かつて自分が作ったリコーダーとオーボエだけを持って、橘家を出た。

携帯電話は置いて来た。


鳩がぼーぼーと啼いている。

小学生の頃、ラジオ体操に通った朝を思い出す。


「ま、何とかなるさ。」

そう嘯(うそぶ)いてみたけれど、何のアテもなかった。












さすがにおかしい……。

ようやく、かほりが気づいたのは、雅人が橘家を出てから3ヶ月後。

もともと電話もメールもしないとは言え……父も、今や親友のような存在のりう子さえも、雅人のことを教えてくれない……。

連日のコンサートとレコーディングに追われて疲労困憊のかほりを慮ってのこと……にしても、不自然過ぎる。

クリスマスもお正月も音沙汰ないというのは……もう……何かトラブルが起こったとしか思えない……。

また、雅人の悪い病気が出たのだろうか……。




「Bitte konzentrieren sich auf,かほり。」

不意に、名指しで注意されてしまった。

振り返ると、クルーゲ先生がじとーっとかほりを見ている。

「Es tut mir leid.」

ごめんなさい……と、小声で謝って、かほりは譜面に集中した。





夏ゼメスターの終わりが近づいた頃、かほりはクルーゲ先生に呼ばれてレッスン室へ赴いた。

既に講義は終わり、試験期間と称するお休みに入っている。

真面目なかほりは試験期間中もずっと個人レッスンを取っていたが、忙しいクルーゲ先生のレッスンはいつも代理の助手の先生だった。

珍しいな……と思いつつ入室した部屋には、恩師のクルーゲ先生だけではなく、3人の男性が居た。

現在ドイツで人気を博している新進気鋭のアンサンブルのメンバーだった。

とりあえずご挨拶した後、彼らのメンバーの独りが喉頭癌を患い、治療中であることを告げられた。

メンバーが復帰するまでの約1年間の助っ人を探していた彼らは、大学のコンサートでかほりに目星をつけていたらしい。

彼らもまたクルーゲ先生の教え子らしく、かほりの意志を無視して、話は進められた。


ドイツ国内のみならず、欧州各地でのコンサートツアーと、有名古楽レーベルから発売されるCDの録音。

まるで夢のような話だった。
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