何度でもあなたをつかまえる
「実は、娘にも同じようなことを言われた。東京で家族で暮らしたいから、新しいオケを作れとな。……バロックもなあ……まあ、苦手意識はなくなったが……それだけじゃあなあ……。」


空は思わず前のめりになった。

当然、東出は一蹴すると思っていたのに……脈があるのか!


「じゃあ、バロックも!するオケでいいやないですか!やりましょうよ!」


かほりのチェンバロと違って、空はバロックのみならず普通にクラシックのヴァイオリンも弾くことができる。

むしろ幼少期からのコンクールの受賞歴は、そっちのほうが好成績を納めてきた。

現在の仕事もクラシックとバロックが半々。

どちらかと言うとバロックが好き……という程度の認識だ。

かほりと一緒に演奏するために、この家ではもっぱらバロックヴァイオリンを弾いているが。


……確かに、我ながら……けなげかもしれない。


「……そうだな。とりあえず……妻に相談してみるか。……おい、お前。もしオケを作ったら、お前は演奏だけじゃなく事務もやれよ。……何なら、俺の秘書でもいい。」

どこまで本気か、東出は機嫌よくそう言ってから、立ち上がった。

「乾杯の酒を買ってくる。極上のシャンパーニュにしよう。……ああ、かほりさんはダメだな。ホットミルクでも作ってやれ。」

「はい!いってらっしゃ~い。つまみも準備しときますわ。」

空も立ち上がって、東出を見送ろうと玄関先までついて行った。



ちょうどその時、玄関チャイムが鳴った。

「……アンナか?」

東出が無造作にドアを開けた。

急にドアを開けられて驚いた顔をして突っ立っているのは……先ほどから東出が「くらげ男」と呼んでいた雅人だった。

「あ……びっくりした。東出さん。こんちは。……お帰りですか?」

ニコッと好いたらしい笑顔で、雅人が言った。

……かつては、かわいいと……愛しいと思ったその笑顔に……東出はイラッとした。

「ああ。帰る。……そら。乾杯は中止だ。俺は帰る。」

東出は不愉快そうにそう言って、雅人の脇をすり抜けるように家を出た。


「……あ、東出さん。奥さんになんか言ってくれたんでしょ?こないだ、わざわざライブに来てくれたんだって。ありがとう。」

雅人の言葉を背中で聞いて、東出は振り返りもせずに手を挙げることで応えると、そのまま本当に帰ってしまった。
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