何度でもあなたをつかまえる
「そういう楽器だから。めんどくさがってたら、とっくにやめてるわ。……ご機嫌伺いみたいなものよ。手は掛かるけど、この音が大好きだから。」

かほりの返答をじっと聞いて、雅人はため息をついた。

「……楽器じゃないよ。俺。……めんどくさいよな。」

う……。

こ、答えられない……。

かほりは、返答に詰まって……しばしの沈黙の後、やっと答えた。

「好きだから。……いい。」

我ながら、不器用すぎる。

もっと気の利いたこと、言えないかな。

雅人は、何も答えずに、音叉を置いた。

「たぶんこれで、合ってると思う。……弾いて。」

「あ……うん。」

かほりはチェンバロの前に座って、音を確かめた。

完璧。

「さすがね。綺麗に合ってる。……ほら。」

かほりは、そのまま演奏を始めた。

東出のオケで弾く予定の、バッハ。

雅人は、じっと耳を傾けて聞き入った。

かほりらしい、正確無比な音。

そこに感情の乱れは感じない。

……これなら……大丈夫だ。

雅人は、一抹の淋しさを振り払って言った。

「離婚しよう。……俺、もう、限界。」

……え……?

何て言ったの?

「あ。続けて。聞きたい。」

指を止めようとしたかほりに、雅人は弾き続けるように言った。

かほりは、言われるがままに音を奏で続ける。

頭の中は真っ白だけど、引き続けることは可能だ。

いくつもの大舞台を経験してきたかほりは、たとえ緊張で意識が飛んでも反射的に弾きこなせるまで練習を積み重ねてきた。

たぶん、記憶喪失になっても、最後まで弾けるだろう。

かと言って……こんな……人生の分岐点でも弾き続けることを強いられるなんて……まるで、「赤い靴」だ。

動揺を押さえ込んで、一心不乱に弾き続けるかほりに、雅人が言った。

「ごめんな。ゐねのこと、頼む。」

「……本気で言ってるの?」

聞くまでもない。

雅人は、本気で行こうとしている。

かほりは、顔を歪めて……それでも弾き続けた。

それが、雅人の意志だから。

雅人が聞きたいって、言ったから。

「うん。……独りになりたいんだ。」

かほりは、黙って指を動かした。

正確に、冷静に、音を並べる。

東出が望む音を完璧に提供するために、ずっと練習してきた。

何も変わらない。

たとえ、雅人がいなくても、何も変わらない……。
 
「今まで、ありがとう。愛していたよ。」

過去形……。

かほりの中で、何かがはじけた。

終わったの?

雅人は、私を……私と、ゐねから……逃げ出すの?

私を……捨てたの?

心がぽっかり。

涙が溢れてくる。

いつの間にか、雅人は姿を消していた。

でも、かほりは弾き続けた。

それが、雅人よ意志だから。

雅人が聞きたいって、言ったから。

……嘘つき。

途中で出て行くなんて……ひどい。

聞きたい、って言ったじゃない。

愛してる、って言ったじゃない。


嘘つき……。





第5章 了



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