何度でもあなたをつかまえる
とても聞いてられず、途中で辞めさせると、武井空は首を傾げた。

「どしたん?何か、あった?全然集中できてへんみたいやけど。」

ゐねは、息をついて、うなだれた。

「ごめんなさい。……何か……色々ダメージ受けてて。」

色々、という言葉に、空は今日のレッスンの続行を諦めた。

「……おいで。お茶にしよ。」

スコアを閉じて、空はゐねに微笑みかけた。

空の笑顔を見上げるゐねの瞳が揺れた。

……泣く……。

身構えて、固まり、それからこっそり右足を引いた空を逃すまじ!と、ゐねはしがみついてきた。

「……そら先生~~~。」

ゐねは、空の胸でメーメー泣きじゃくった。


……あーあ……。

空の中の父性と慈愛……理性と欲情が葛藤を始めた。

とりあえず……離れてくれんと……やばいんやけど……。


ゐねは、美人だ。

ずっとかほりに未練を残し続けている空でさえ、迫られたら逃げ切れないほどに……魅力的だ。

「いっちゃん。まあ、落ち着いて。泣いててもわからんわ。……ちゃんと、言葉で説明してみ。紅茶いれるから。」

空はそう言いながらゐねの両肩を持ち、そーっと自分から引き剥がした。

ゐねは遠慮なく泣いたため、アイメイクがボロボロになり……空のシャツにも黒いシミを作っていた。

「……バニラチャイがいい。ロンネフェルト。」

ぐずぐずと鼻をすすりながら、ゐねはそう訴えた。

「了解。……そうやって泣いてたら子供の時のまんまやな。鼻水たらして。」

空がわざとそうからかうと、ゐねは慌ててハンカチを出した。

「マスカラも落ちてるわ。……顔洗って、スッキリしてから、サンルームにおいで。」

ゐねは不満そうに口を尖らせた。

サンルームが不満らしい。

でも空は、苦笑して念押しした。

「サンルームや。見晴らしのええとこやないと、俺の貞操が危ないからな。」

「もう!意地悪っ!」

ゐねは、ふくれっ面でバスルームへと走った。


「……意地悪は、どっちやねん……勘弁してほしいわ……。」

空は独りごちて、キッチンへと向かった。


現在、この家の主は日本にいる。

実家の法事で、昨日から夫婦揃って鎌倉だ。

……まだ連絡を受けていないが、たぶん……今日か明日には、こっちに来るような気がする。

さっきみたいなところを見られてしまったら……。

考えるだに恐ろしい。
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