何度でもあなたをつかまえる
本来なら間髪いれず続く第3番プレストはやめた。


「自由過ぎて何の参考にもならん。」

意外と楽しそうに、東出が言った。


「ふーん?巨匠が素人からインスピレーションを欲しがったんだ?行き詰まってるの?」


すっかりため口の雅人に、かほりは気が気でなかった。


「バッハの演奏は古楽器が一番みたいな迷惑な流行にうんざりしてる。」

東出の言葉は、掛け値なしの本音だった。


かつて、バッハの音楽はクラシックの原点だった。

「音楽の父」と称され、格式と威厳をもって、恭しく演奏された。

ピアノやオルガンの教本としては今もそうだが、一音一音狂いなく弾かれる正確さが要求された。

オーケストラでは、特に厳格に壮大に演奏された。


「もはや流行じゃないでしょう。別ジャンル、でいいじゃん。」

ケロッとそんなことを言う雅人に、東出は苦笑した。

「……お前は自由でいいな。でも、それじゃ、スポンサーは納得しない。」


ずいぶんくだけたヒトなのね……。

スコアをそっと閉じながら、かほりは2人の会話に耳をそばだてた。


最初は怖いヒトかと思ったけれど、良くも悪くもフランクなのだろう。

日本人っぽくはないけれど、外国で外国人オーケストラを束ねるなら、あれぐらいの迫力がないと無理なのかしら。


戸口には、アンナが目を輝かせて2人を凝視している。

オランダ語と英語、日常会話程度のドイツ語を話せるアンナは、耳がいいらしく、日本語も聞き取り始めているらしい。


「そういうもんなの?畑違いの要求してるの?……あ、そうか。東出さんに期待してんじゃない?古楽に傾倒するか、あるいは、自分のスタイルにこだわって、よりいいものを仕上げて、力でねじ伏せてくるか。」


挑発してる……。

雅人が笑顔すら浮かべているのを目にして、かほりは思わず立ち上がった。

とても見てられなかった……。


スコアを回収しようと雅人に近づく。

と、雅人はグイッとかほりの手を掴んだ。

驚いて雅人を見上げた。
< 29 / 234 >

この作品をシェア

pagetop