何度でもあなたをつかまえる
雅人は、かほりを一瞥もせず、東出に対峙した。

「俺の代わりに、この子に行ってもらうからさ。バッハ、がんばって。」

それだけで、充分だった。

雅人は……ケルンに戻ってくる気はない……。

日本で、がんばるんだ……。

意気消沈するかほりを無視して、東出と雅人は連絡先を交換した。

アンナがオランダ語で東出をまくし立てる。

この後、一緒にどこかに行くらしい。

「Claudius Therme(クラウディウス・テルメ)だそうだ。お前も行くか?……抵抗がなければ、かほりさんも。」

クラウディウス・テルメは、ケルン郊外にある大きな温泉施設だ。

東出は苗字ではなく名前で、しかも「さん」を付けてかほりを呼んだ。

驚いたけれど、ヒトとして認識されたことに、ちょっとホッとした。

でも雅人は、しれっと断った。

「クラウディウステルメ……テルメ?やだよ。東出さんに襲われる。」

「雅人!何てことを!」

慌てて止めようとしたけれど、いけしゃあしゃあとそう言い切った雅人に対して、東出は別段怒りもしなかった。

「なんだ。襲われた経験ありそうだな。」

「……バーデンバーデンでは、かほりが助けてくれたけど。」

「雅人!」

ぶっちゃけすぎだろう。

かほりはその時のことを思い出して、恥ずかしさにいたたまれなくなり……逃げ出そうとして、戸口でアンナに捕まえられた。

「オソワレ……カケタ?Did he been? not been?」

未遂かどうかを目を輝かせて尋ねるアンナに、かほりは叫んだ。

「Not been!」

「その時はね。」

わざわざそう補足した雅人を涙目で睨んで、かほりは逃げ出した。

こんな時でも、スリッパの音を鳴らさないかほりに、東出が肩をすくめた。

「ありゃ、本物のお嬢さまだな。」

「ええ。あなたもご存じだと思いますよ。先祖が教科書に載っている家のお嬢さんです。」

雅人の瞳に、この上なく優しい感情と、苦々しさと、卑屈さが混じる。

「なんだ。あの子のことになると、いきなり殊勝になるんだな。敬語に戻ったぞ。」

東出がからかうと、雅人は苦笑した。

「惚れてますから。」

どこまでも、いけしゃあしゃあとこいつは……。

東出の脳裏に、日本に残してきた妻がよぎった。
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