榎本氏
 榎本英樹氏と徳川龍之介氏が、英則殿と節紫姫のことを話していた時と丁度同じ頃、橘嶋田麻呂殿は、宮中の公務が非番であった仁姫を相手に、自分の欲望を楽しませていた。この日は、英樹殿と龍之介殿も、たまたま公務が非番であったために、龍之介殿が英樹殿を、その住まいまで訪ねたのであったが、今の嶋田麻呂殿には、女君としての妻の特徴に触れることくらいしか生甲斐と言えるものがなかった。それに現状では、嶋田麻呂殿には、触れることのできる女君も、仁姫しかいなかったのである。嶋田麻呂殿は、既にその頃にはもう、七人目の若君を授かっていた。そのうちの六人の若君は、既に乳離れをし、養育は男子なので、武術を叩き込む必要があったことから、英樹殿が預かっていた。藤姫が生前預かっていた、仁姫の二人の息女である、小秋の上と小冬の上は、この時十四歳と十二歳になっていた。嶋田麻呂殿の、一番上の若君は既に六歳となっており、橘家の長男である嶋田麻呂殿には、自身の家は安泰と考えられた。それだけに、嶋田麻呂殿は、充足させた性欲の次に、是非とも出世欲を叶えたい、と思うようになった。それは、嶋田麻呂殿にとっては、まず、小秋の上と小冬の上を、帝の更衣に上げることを意味した。
 「小秋と小冬は、帝の后にするぞ。」
 嶋田麻呂殿は、仁姫に言った。
 「お待ちくださいませ。あの二人は、まだ私の養育を十分に受けておりません。母として、まだまだ教えたいことがございます。」
 「出仕させてからでも養育は受けさせられるではないか。」
 「私は貴方様のお子を産む役目を、果たしとうございます。」
 「今も公務が多忙で、私と一緒にいる時間は、僅かではないか。」
 「その僅かな時間で、小秋や小冬も含め、私は精一杯貴方様のお子を産んで参りましたわ。出仕した小秋や小冬の面倒を見るために、宮中に出向くと、もう全然貴方様とご一緒に過ごせる時間がなくなってしまいますわ。」
 「それでも、この私のために、一肌脱ごうという気持ちには、なってくれぬのか。」
 「私はもう、貴方様のために、何肌も脱いできましたわ。」
 この日は、仁姫の方から、嶋田麻呂殿の手を取って、自分の胸に差し入れた。嶋田麻呂殿の手が、自分の体を愛撫することに、心地良さを覚えると、仁姫は今度は自分の方から、嶋田麻呂殿を受け入れた。

 龍之介殿が、英樹殿を訪ねた日の翌日、公務が終えてから、英樹殿は、子息の英則殿を、ご自分の部屋へお呼びになって言われた。
 「お母様が亡くなられてから、武術のことしか考えてこなかったのではないのか?」
 「お父様。どうして急にそのようなことを言われるのですか?」
 「そなたも、そろそろ武術以外のことに、興味を持たないかな、と思ってな。」
 「私は、お父様から、学問の手ほどきも受けて参りました。」
 「しかし、人が生きていくのに必要なものは、武術や学問だけではないぞ。」
 「ほかに何が必要なのです?」
 「武術の達人であっても、和歌くらいは詠めた方がよいぞ。徳川や満田の叔父君たちと、近く和歌の会を催すことになっていてのう。そなたなら、いつくらいがよい?」
 「私はお父様と同じ、公務で多忙な身です。」
 「では、三人で日程を決めるので、追って知らせるが、それまでに小夏の姉上に、和歌を教わっておくように。歌会には、女君も見えるぞ。気に入った女君がいたら、寝室に通っていってもよいぞ。」
 「お父様。ご冗談にも、そのようなことを言われるものではありませんぞ。仁姫お姉様のことを考えたら、女君のお宅へ伺うなど、とんでもないことです。」
 「仁姫の何を、そんなに心配しておるのだ?」
 「私は、お父様とお母様が、長い年月を仲睦まじくお過ごしであったことを知っています。でも、どう考えても橘嶋田麻呂殿と仁姫お姉さまは、仲睦まじくご夫婦とは言えないと考えています。お子の全然できないご夫婦も憐れですが、お子を産み続けることでしか、夫婦として結びつけないのも、気の毒です。

 「そなたは、嶋田麻呂殿と仁姫をそう見て居るのか?」
 「はい。あんな風に、お姉さまが毎年のように、次々とお子をお産みになっていたら、今にお体を悪くされてしまいます。お姉様は、只でさえ、宮中の子女たちの教育でご多忙な毎日です。嶋田麻呂殿はご自身の健康のためにも、もっと別のことに興味をお持ちになるべきではないでしょうか?」
 「英則。橘家は、天子様の家に繋がるご家系だ。我々の立場から、注意をすることはできぬ。帝からご指示があった時に初めて、私が動く。」
 榎本英樹氏は、自分にはまだまだ英則殿を養育すべきことがたくさんあることを感じた。翌日、徳川龍之介氏や満田亀造氏と共に歌会の日程を決めた。
一ヶ月後、歌会は催されたが、英樹氏の取り計らいにも関わらず、英則殿は、歌会には出席しなかった。節紫姫殿は、気落ちしていたが、歌会には、欠席した英則殿に代わって、橘嶋田麻呂殿が出席してきていた。狡猾な嶋田麻呂殿は、出産で多忙な公務で日毎に肉体の弱っていく妻の仁姫に代わる獲物を得る準備をしていたのだった。歌会に出席してきた嶋田麻呂殿を見て、英樹氏は英則殿が、嶋田麻呂殿に反抗的な気持ちを抱いた理由を理解した。

八〇四年、仁姫は八人目の男子を出産した。この年、十六歳になった小秋の上と十四歳になった小冬の上を、橘嶋田麻呂殿は、強引に桓武天皇第一王子の妃にした。榎本英則殿の、嶋田麻呂殿に対する反発は、益々強まった。そして、この年から、ついに仁姫のことを捨てた。長年に渡る立て続けの出産で、肉体の弱り切っていた仁姫には、既に夫の行動を監視する意欲は失せていた。この年から、嶋田麻呂殿は、満田亀造殿の三の君である、蓮姫との交際が本格化した。しかし、蓮姫との交際が始まった時と同様、夜仁姫と交わった後、仁姫が眠ってしまってから、蓮姫の寝室には行くものの、朝になると素知らぬ顔をして、胸のあたりについている小さな蕾が酷く痛む仁姫を優しく労わる振りをしているので、仁姫はまさか夫が、自分が寝てから、別の女君の所へ行っているなどとは、知る由もなかった。蓮姫はすぐに懐妊したが、仁姫が八〇二年頃から、宮中の業務でどんなに多忙でも、毎晩のように嶋田麻呂殿の手を取っては、自分の胸に滑り込ませようとするので、仁姫は体は弱っていても、毎年のように出産する日常に、変化はなかった。
蓮姫が一番最初に身籠ったのは、女児であったが、嶋田麻呂殿にとっては、出産で弱り果てている仁姫などよりも、蓮姫の方が、遥かに魅力的に感じられた。仁姫は今では、五節の舞姫として、公達の話題に上ることもなくなっていた。美しかった仁姫に代わって、今公達の話題に上るようになっていたのは、榎本英樹氏の二の君である、小夏の上と、徳川龍之介氏の三の君である、節紫姫殿であった。
時に、節紫姫殿は、八〇二年、榎本・徳川・満田三氏の間で歌会が催され、徳川龍之介氏の寝殿が、実際の会場になった折り、父君から、
「今度の歌会には、榎本英則殿もお越しだそうだ。姿をお見掛けしたら、ご挨拶の歌の遣り取りくらい、交わしてみなさい。どういう方か、よく分かる筈だ。」
聞いていたのに、その日何故か結局英則殿は、姿をお見せにならなくて、非常にがっかりされておいでのことがあった。それで節紫殿はずっと、
 (もう英則様にお会いできることはないのだわ。)
とお考えであったが、ご自身が五節舞を人様の前で、舞えるようになると、ほぼ毎回英則殿が、宮中の行事の都合で、五節舞をご覧においでになるようになると、舞い終わった後で、まだ英則殿が客席に残っておいでの折りには、舞台の陰で、仲良しの小夏の上とご一緒になって、
 「あの方は、榎本家の英則様でしょう?」
などと、男君の品定めをされたいようなご様子を、お見せになった。
 小夏の上は、榎本英樹氏と藤姫殿との間に生まれた二の君で、七九二年に、橘嶋田麻呂殿の弟君である、橘清友殿と結ばれ、この時既に、清友殿との間に、三人もの若君を設けていた。実は、この橘清友殿は、小夏の上と結ばれる前に、小瀧の上、という北方との間に、姫君が二人おいでになった。小夏の上は、北方ではなく、しかも姉の仁姫と同様、複数の妻を持つ男君に嫁いだのであった。小瀧の上、と言う方は、藤原家式家の出身の、藤原良継氏を父君としていた。七六八年、小瀧の上がお生まれになり、七七一年には、良継殿は、内大臣に上られた。小瀧の上は、七八四年には、安子殿を、続いて七八六年には、嘉智子殿をお産みになった。この嘉智子殿は、後に嵯峨天皇の皇后となられたのである。小夏の上の方は、七九五年には氏公殿を、七九八年には氏人殿を、そして八〇一年には、弟氏殿を設けていた。
 「節紫姫。私も榎本家の出身なのよ。ご存じなかった?」
 小夏の上は、節紫姫に言った。
 「あらっ、小夏さんが?」
 「そうよ。あの英則は、私の弟なの。」
 「まあ、あの英則様が、小夏さんの弟君なの?」
 「…。」
 小夏の上は、何も言わずに微笑んだ。
 「英則様は、通りで素敵な方だわ。私、あの方に歌を送るわ。」
 「何を言うの?節紫姫。歌はまず殿方から貰うものよ。」
 「そんな形式的なことよりも、自分の疑問を残さないようにすることの方が先決だわ。」
 そう言うなり、節紫姫は筆を取って和歌を認めた。

  来るものと
   待ちにし気持ち
   高ぶりて
  歌を交わせぬ
   寂しさの憂さ
 (お越しになる筈であった歌会で、お会いすることも叶わず、寂しさを感じました。)

 節紫姫が、和歌を認め終えたのを確かめると、小夏の上が言った。
 「節紫姫、私が弟に届けてあげるわ。」
 「いいえ。自分で直接渡すわ。」
 節紫姫は、なんと、大胆にも自分から、英則殿に近付いていった。節紫姫が、和歌を認めてある半紙を、英則殿に見せると、英則殿は、よく見た上で、すぐに次のように返した。

  寂しさは
   いつ何時に
   ある
  行きたい場所も
   限りありたる
 (慣れてきたものを奪われる寂しさは、いつも急に襲ってきます。お互いに自由にあちこち行けるわけではないと思います。)
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