榎本氏
園姫が、父・房前にそんなことを言っているうちに、いつの間にか、七一七年の出立の日が来てしまった。多くの不安を抱えながら、園姫は両親の下を離れて船に乗った。一人になって、急に寂しく感じられるようになった園姫は、必死で吉備真備の姿を探した。しかし、見つからないうちに園姫は、気持ちが悪くなっていった。気が付くと、園姫の顔の上で、三人の殿方が、園姫の顔を覗き込んでいた。吉備真備・阿倍仲麻呂・玄昉の三人であった。
「お気が付かれましたか?」
「貴方は?」
「ご一緒に、日本国からこの唐へ、同じ船で渡ってきたのです。貴女様は、藤原房前様のご息女だそうですね。この真備から、聞くことは聞きました。間もなく琴の稽古が始まります。ご一緒に参りましょう。」
「それではもう、唐の国に着いたのですね?」
園姫が、船酔いで気を失っている間に、既に一ヶ月が過ぎていた。しかし、その後も、園姫が、房前の息女であることは、園姫と三人の殿方との間の極秘事項とされた。
琴の稽古が始めると、なんと吉備真備も琴の練習をしていた。吉備真備は、琴の演奏の腕前が、凡庸ではなかった。園姫は、自分の腕前に失望した。毎夜のように、琴の練習が続けられていく中で、真備は毎晩のように、園姫に話しかけた。
「貴女は、琴がお好きなようですね。でも、漢書や礼記の勉強もしておかれた方がよさそうですね。」
園姫は、真備の忠告を受け入れ、漢書や礼記の勉強もするようになった。しかし、そのうちに、琴の腕前も、漢書や礼記に対する造詣も真備の方が格段に深いことを知ると、次第に悔しくてならなくなっていった。そして、勉強を続ける真備と園姫の下へ、七一八年に日本国の当時の皇太子に、阿部内親王が誕生したことが知らされた。内親王誕生の知らせが齎された時、真備と園姫は、丁度夜空を見ていた。玄昉も同じ場所に居合わせていた。内親王誕生について知らせに来たのは、阿倍仲麻呂であった。
「今日は、東方の夜空が、随分ときれいだな。」
真備が言った。周囲には、阿倍仲麻呂・玄昉・園姫の三人がいるのに、まるで自分一人しかいない、といった態度であった。真備は最近、天文学にも興味を示すようになっていた。
「これはまた、近いうちに日本に女帝が立つかもしれないな。」
真備は、周囲の三人に息をつく間も与えようとしないかのように、間を置かずに言った。
「どうして、そんなことがお分かりになりますの?」
園姫が聞いた。
「ここから見て、東方の夜空、というのは、我々の日本国の方角です。その方角の夜空の様子で分かることがあります。」
「私には、そのようなことは分かりませんわ。」
「それはそうでしょう。私に分かることが全て貴女にも分かるわけではありません。」
「どうして、そのようなことがおっしゃれますの?」
しかし真備は、園姫のこの質問には答えずに、
「今日はもう遅い。貴女はもう休んだ方が良い。」
と冷淡に言った。園姫は当然のことながら、ひどく寂しさを感じたが、例え、
「いいえ。私は貴方がちゃんと答えてくれるまで、寝たりなんかしません。」
などと言ってみたところで、今の真備から、自分の期待する答が返って来る保証があるわけでもなかった。園姫は、今の真備が望む通り、ただその場を去るしかなかった。園姫が、真備の側を離れて行ったのを確かめると、玄昉が言った。
「藤原房前様、と言えば、参議で、今を時めく右大臣の御曹司でしょう?その御曹司のご息女に、あんなに冷たくしていいの?」
玄昉の物の言い方は、真備をからかおうとしているかのようであった。
「御曹司であろうと、お偉いさんの息女であろうと、今は私や仲麻呂殿と同じ留学生の身分に変わりはない。特別に優しくする必要などない。」
一向に動じない真備の態度に、たじたじとなった玄昉の様子を垣間見ていた阿倍仲麻呂が、今度は横から口を挟んできた。
「君は、相変わらず厳しいね。でも、高貴なお姫様には、もう少し優しくしても、罰は当たらないでしょう。」
「吉備真備は、厳しくてこそ真備だ。学問を志す君たちに、お姫様のご機嫌を取る義務などない筈だよ。」
阿倍仲麻呂も、この日はこれ以上、真備に物を言うことを止めた。その翌日の夜からまた、園姫は真備に近付いて来ては、
「真備様には、星のことがお分かりになりますの?」
としつこく聞いてくるようになった。真備は聞かれる度に、園姫から逃げるようになっていた。園姫は、甘えどころのない真備の態度に、次第に言いようのない寂しさを覚えるようになった。そのうち真備は、園姫が話しかけるすきもない程多忙な様子を見せるようになった。そうしているうちに、七一九年になると、吉備真備と阿倍仲麻呂は、科挙試験に合格した。科挙試験に合格できなかった玄昉だけは、僧侶としての本格的な修行を積むことになった。
短期間の間に、科挙試験に合格した日本人留学生が二人いる、と知って当時の唐の玄宗皇帝は、唐の宮廷にその二人を迎えたい、と考えるようになった。この二人というのは、言うまでもなく、吉備真備と阿倍仲麻呂である。真備と仲麻呂は、唐の宮廷に仕えながら、留学生としての勉学にも励み続けた。十年以上の歳月を唐の国で過ごすうちに、真備と仲麻呂の間には、少しずつ考え方に相違が現れるようになった。真備は、
「唐で学んだ兵学や天文学の知識や技術を、自分の祖国・日本で生かしたい。」
と考えていた。しかし、仲麻呂は、
「優れた知識や技術を持っている唐の国で、役人として玄宗皇帝を支えたい。」
と考えるようになっていた。
七三五年、帰国を決意した真備は、既に大分以前から、いち早く祖国への帰国の意欲を失い始めている友・阿倍仲麻呂の様子に気付いていた。気付いていながら、仲麻呂にこう話した。
「日本には、近くまた女帝が立つことになりそうだ。女君であるがゆえに、優れた天皇であった、と人々が言うようにしていきたいものだ。」
「君は良いな。自分の生まれ故郷へ帰りたい、というのは、一番崇高な人の思いだ。だが、私は弟の帯麻呂が殺人犯になってしまったので、もう日本へは帰れない。本来なら、弱い弟をどこまでも庇ってやりたいが、私はあまりにも無力だ。自分が生活できなくなるのも怖い。」
「そうだったのか。弟君の罪もそう遠からず許されよう。弟君が許されたら、真っ先に君に文を出そう。そうしたら、また日本に戻って来て、共に日本国の女帝を支えよう。私は、玄昉と園姫を連れて、一足先に日本へ帰ることにするよ。」
真備の暖かい言葉は、いつまでも仲麻呂の心を癒していった。その一方で、自身の任務に忠実だった真備は、唐の国を後にした。
日本国で、七一五年から七二四年まで、天子の座にお付きになっていた女帝の元正天皇は、七二四年になると、聖武天皇にその位をお譲りになった。七三五年に、唐の国から吉備真備が玄昉と共に帰国すると、聖武天皇と光明皇后は、二人を日本国の高い役職に就けた。更に聖武天皇は、藤原房前の進言を入れて、園姫を正式に真備の北方として、迎えさせた。しかし、園姫を疎かにしているのは、真備が帰国を決意した時と変わってはいなかった。園姫は、日々寂寥感を募らせていった。ある日、玄昉は公務の傍ら、真備邸に押し入って行き、園姫と密会した。
「真備殿は、今上の天皇・皇后両陛下に覚えがめでたく、唐の国から帰国後は、専ら阿部内親王様の家庭教師として活躍されていて、ご存じのとおり、ご多忙の毎日です。今日もお戻りにはならないと思いますよ。」
巧みに自分に近付いてくる玄昉に、園姫は怪しさを察した。その頃、玄昉は、聖武天皇の母君・藤原宮子殿や光明皇后とも、何かと噂を立てられていた。毎日のように、阿部内親王のお側に侍る真備の帰りを待つことがいかに空しいことであるかを思い知っていた園姫は、毎晩のように玄昉の思いに従うようになっていった。それにより、園姫には寂寥感が消え、快感を得ることができた。
「お気が付かれましたか?」
「貴方は?」
「ご一緒に、日本国からこの唐へ、同じ船で渡ってきたのです。貴女様は、藤原房前様のご息女だそうですね。この真備から、聞くことは聞きました。間もなく琴の稽古が始まります。ご一緒に参りましょう。」
「それではもう、唐の国に着いたのですね?」
園姫が、船酔いで気を失っている間に、既に一ヶ月が過ぎていた。しかし、その後も、園姫が、房前の息女であることは、園姫と三人の殿方との間の極秘事項とされた。
琴の稽古が始めると、なんと吉備真備も琴の練習をしていた。吉備真備は、琴の演奏の腕前が、凡庸ではなかった。園姫は、自分の腕前に失望した。毎夜のように、琴の練習が続けられていく中で、真備は毎晩のように、園姫に話しかけた。
「貴女は、琴がお好きなようですね。でも、漢書や礼記の勉強もしておかれた方がよさそうですね。」
園姫は、真備の忠告を受け入れ、漢書や礼記の勉強もするようになった。しかし、そのうちに、琴の腕前も、漢書や礼記に対する造詣も真備の方が格段に深いことを知ると、次第に悔しくてならなくなっていった。そして、勉強を続ける真備と園姫の下へ、七一八年に日本国の当時の皇太子に、阿部内親王が誕生したことが知らされた。内親王誕生の知らせが齎された時、真備と園姫は、丁度夜空を見ていた。玄昉も同じ場所に居合わせていた。内親王誕生について知らせに来たのは、阿倍仲麻呂であった。
「今日は、東方の夜空が、随分ときれいだな。」
真備が言った。周囲には、阿倍仲麻呂・玄昉・園姫の三人がいるのに、まるで自分一人しかいない、といった態度であった。真備は最近、天文学にも興味を示すようになっていた。
「これはまた、近いうちに日本に女帝が立つかもしれないな。」
真備は、周囲の三人に息をつく間も与えようとしないかのように、間を置かずに言った。
「どうして、そんなことがお分かりになりますの?」
園姫が聞いた。
「ここから見て、東方の夜空、というのは、我々の日本国の方角です。その方角の夜空の様子で分かることがあります。」
「私には、そのようなことは分かりませんわ。」
「それはそうでしょう。私に分かることが全て貴女にも分かるわけではありません。」
「どうして、そのようなことがおっしゃれますの?」
しかし真備は、園姫のこの質問には答えずに、
「今日はもう遅い。貴女はもう休んだ方が良い。」
と冷淡に言った。園姫は当然のことながら、ひどく寂しさを感じたが、例え、
「いいえ。私は貴方がちゃんと答えてくれるまで、寝たりなんかしません。」
などと言ってみたところで、今の真備から、自分の期待する答が返って来る保証があるわけでもなかった。園姫は、今の真備が望む通り、ただその場を去るしかなかった。園姫が、真備の側を離れて行ったのを確かめると、玄昉が言った。
「藤原房前様、と言えば、参議で、今を時めく右大臣の御曹司でしょう?その御曹司のご息女に、あんなに冷たくしていいの?」
玄昉の物の言い方は、真備をからかおうとしているかのようであった。
「御曹司であろうと、お偉いさんの息女であろうと、今は私や仲麻呂殿と同じ留学生の身分に変わりはない。特別に優しくする必要などない。」
一向に動じない真備の態度に、たじたじとなった玄昉の様子を垣間見ていた阿倍仲麻呂が、今度は横から口を挟んできた。
「君は、相変わらず厳しいね。でも、高貴なお姫様には、もう少し優しくしても、罰は当たらないでしょう。」
「吉備真備は、厳しくてこそ真備だ。学問を志す君たちに、お姫様のご機嫌を取る義務などない筈だよ。」
阿倍仲麻呂も、この日はこれ以上、真備に物を言うことを止めた。その翌日の夜からまた、園姫は真備に近付いて来ては、
「真備様には、星のことがお分かりになりますの?」
としつこく聞いてくるようになった。真備は聞かれる度に、園姫から逃げるようになっていた。園姫は、甘えどころのない真備の態度に、次第に言いようのない寂しさを覚えるようになった。そのうち真備は、園姫が話しかけるすきもない程多忙な様子を見せるようになった。そうしているうちに、七一九年になると、吉備真備と阿倍仲麻呂は、科挙試験に合格した。科挙試験に合格できなかった玄昉だけは、僧侶としての本格的な修行を積むことになった。
短期間の間に、科挙試験に合格した日本人留学生が二人いる、と知って当時の唐の玄宗皇帝は、唐の宮廷にその二人を迎えたい、と考えるようになった。この二人というのは、言うまでもなく、吉備真備と阿倍仲麻呂である。真備と仲麻呂は、唐の宮廷に仕えながら、留学生としての勉学にも励み続けた。十年以上の歳月を唐の国で過ごすうちに、真備と仲麻呂の間には、少しずつ考え方に相違が現れるようになった。真備は、
「唐で学んだ兵学や天文学の知識や技術を、自分の祖国・日本で生かしたい。」
と考えていた。しかし、仲麻呂は、
「優れた知識や技術を持っている唐の国で、役人として玄宗皇帝を支えたい。」
と考えるようになっていた。
七三五年、帰国を決意した真備は、既に大分以前から、いち早く祖国への帰国の意欲を失い始めている友・阿倍仲麻呂の様子に気付いていた。気付いていながら、仲麻呂にこう話した。
「日本には、近くまた女帝が立つことになりそうだ。女君であるがゆえに、優れた天皇であった、と人々が言うようにしていきたいものだ。」
「君は良いな。自分の生まれ故郷へ帰りたい、というのは、一番崇高な人の思いだ。だが、私は弟の帯麻呂が殺人犯になってしまったので、もう日本へは帰れない。本来なら、弱い弟をどこまでも庇ってやりたいが、私はあまりにも無力だ。自分が生活できなくなるのも怖い。」
「そうだったのか。弟君の罪もそう遠からず許されよう。弟君が許されたら、真っ先に君に文を出そう。そうしたら、また日本に戻って来て、共に日本国の女帝を支えよう。私は、玄昉と園姫を連れて、一足先に日本へ帰ることにするよ。」
真備の暖かい言葉は、いつまでも仲麻呂の心を癒していった。その一方で、自身の任務に忠実だった真備は、唐の国を後にした。
日本国で、七一五年から七二四年まで、天子の座にお付きになっていた女帝の元正天皇は、七二四年になると、聖武天皇にその位をお譲りになった。七三五年に、唐の国から吉備真備が玄昉と共に帰国すると、聖武天皇と光明皇后は、二人を日本国の高い役職に就けた。更に聖武天皇は、藤原房前の進言を入れて、園姫を正式に真備の北方として、迎えさせた。しかし、園姫を疎かにしているのは、真備が帰国を決意した時と変わってはいなかった。園姫は、日々寂寥感を募らせていった。ある日、玄昉は公務の傍ら、真備邸に押し入って行き、園姫と密会した。
「真備殿は、今上の天皇・皇后両陛下に覚えがめでたく、唐の国から帰国後は、専ら阿部内親王様の家庭教師として活躍されていて、ご存じのとおり、ご多忙の毎日です。今日もお戻りにはならないと思いますよ。」
巧みに自分に近付いてくる玄昉に、園姫は怪しさを察した。その頃、玄昉は、聖武天皇の母君・藤原宮子殿や光明皇后とも、何かと噂を立てられていた。毎日のように、阿部内親王のお側に侍る真備の帰りを待つことがいかに空しいことであるかを思い知っていた園姫は、毎晩のように玄昉の思いに従うようになっていった。それにより、園姫には寂寥感が消え、快感を得ることができた。