榎本氏
丁度同じ頃、小竹の上は英則氏に付き添われながら、清原家で琴の弾き方の手ほどきを受けていた。小竹の上は、幼少の頃から、舞や琴を母・節紫姫から教わってきたが、舞も琴も、清原瀧雄氏の方が、遥かに上手なので、小竹の上は、暫く悔しい思いをする日々の連続となった。清原家で修業するには、小竹の上は、琵琶や笛などの楽器も覚えなければならなかった。
しかし、清原夏野氏や瀧雄殿は、我が日本国の楽器などに造詣が深く、毎日清原家へ通うことで、厳しくてもお二人は、小竹の上のことを、まるで家族の一人のように扱ってくれていた。小竹の上は、もともと母君の節紫姫や橘家へ嫁ぎ、叔母君にあたる小夏の上から、舞と琴の手ほどきを受けておいでになったが、舞は雅楽に合わせた形で指導を受けることが多く、雅楽の中に含まれている様々な楽器については、あまり細かく学ぶ機会を得ておいでになっていなかった。それが、清原家からの申し出によって、毎日清原家へ通うことで、筝の琴以外の楽器についても、また雅楽そのものについても、ある程度詳しく学ぶ機会を得ることがおできになっていた。
清原瀧雄氏の、第一目の楽器に関する講義が始まった。第一日目は、琴であった。
琴は、きんのことやそうのこと、などと呼ばれ、我が日本の伝統楽器である。しかし、琵琶など、楽器の総称が琴、とされていたこともあり、混同のあった時代もある。日本で、こと、と呼ばれる楽器は、琴(こと)、筝(そう)、和琴(わごん)、一弦琴(須磨琴)、二弦琴(八雲琴)がある。」(ここで、瀧雄殿は、半紙に自筆で言葉をいくつか書いたものを何枚か、小竹の上に見せた。そして、講義は続けられた。)
こととそうは、古くから誤用、混用があったが、区別が必要な場合は、それぞれ、琴のこと、筝のこと、と呼ばれる。『筝』では、柱(じ)と呼ばれる可動式の支柱で弦の音程を調節するのに対し、「琴」は、弦を押さえる場所で音程を決めるという特徴を持つ。和琴は柱を使う。指にはめた爪もしくは指、あるいは手の爪で弦を弾いて音を出す。
琴の由来としては、『古事記』などに『こと』を弾く場面がしばしば登場するように、本来『こと』は古くから日本に存在しており、呪術用の楽器として使用された様子がみられる。弥生時代の遺跡からは既に、『こと』と思われる残片が見つかっており、また古墳時代の埴輪にも『こと』や『こと』を弾く人物をかたどったものがある。つまり、『こと』は名称はともかく楽器としては弥生時代から存在していることになる。その『こと』は五本弦が多く、頭部から尾部に向かいやや広がるような形と、尾部に弦を留める突起があるものが多いことなどから、今日の和琴(わごん)の原型であると思われる。現在も最も普通に『こと』と呼ばれる箏が唐の国から渡来したのは、平城京ができてからのことである。
和琴とは別に、平城京の時代に渡来した「琴」(きんのこと)は唐の国宮廷内の祭祀にまつわる楽器として、弦楽器の中でも重要視されていた。もともと日本では、弦楽器を、人間が息を吹きこまねば演奏できない、管楽器よりも高尚なものとしていた。当時弦楽器は全て、「○○のこと」と呼び習わされていた。醍醐天皇~村上天皇の治世の頃には、「琴のこと」の奏者は少数しか登場しないなど、早くに廃れていたことが解る。ちなみに琴の奏者は、多くが皇族または皇室に深いかかわりを持つ人物である。
倭琴(やまとごと)の祖形となる古代琴は、板作りと共鳴装置をもつ槽作り(ふねつくり)の二種に分類される。この内、板作りの琴は、細長い板の表面に弦を張る構造であり、縄文時代から確認されている。出土例として、北海道小樽市忍路土場(おしょろどば)遺跡、滋賀県彦根市松原内湖遺跡、青森県八戸市是川遺跡などから、縄文時代後期から晩期にかけての縄文琴が出土している。ただし、弦の張り方や琴頭の形が弥生時代後期の琴と異なることから、縄文琴の伝統は途切れ、弥生時代から倭琴の新たな伝統は始まったものと考えられる。似たような楽器として、アイヌのトンコリがある。三〇〇〇年前の青森是川中居遺跡から出土した木製品は世界最古の弦楽器の可能性があり、弥生時代の登呂遺跡などから出土した原始的な琴と似ていることから、日本の琴の原型ではないかと推測されている。
伊勢神道の書物『御鎮座本紀』には、「アメノウズメが天香具弓(あまのかぐゆみ)を並べて叩いたのが琴の始まり」と記述されており、中世神話上では、その起源を「女神が並べた弓から始まったもの」と解釈された。
このように、元来、和語(大和言葉)の「こと」という言葉は、現在の和琴の元となった弥生時代以来の「こと」から発して、奈良時代以降大陸から多数の弦楽器が渡来したとき、それら弦楽器全般を総称する言葉ともなった。この「琴」という字を「こと」と訓じたために、言葉の使われ方に多少の混乱がある。
常陸国住人に琴御館宇志丸(ことのみたち うしまる)という者がおり、ひとりでに鳴る琴を所有しており、敵対勢力が来ると音を鳴らし、宇志丸に教えたため、事前に兵を集められ、徹底して防戦ができ、戦に負けることがなかった。このため、敵側は偽りの和睦を結び、宇志丸の娘を嫁とするが、その嫁を用いて、秘密裏に琴の弦を切らせた。これにより宇志丸は敵兵が進軍しても気づかず、琴の弦が切られたことに気づいた時には、敗戦し、常勝を重ねることはなくなり、敗戦を重ねた結果、近江国滋賀郡に流浪して着き、日吉神人(神主)の祖先となった。
この説話は『続群書類従』所収「耀天記」に記述されたもので、「霊的な琴」といったように、日本風に(神道観で)構成し直されており、日本文化における琴の信仰観がわかる伝説である。
琴とはまず、広義には東洋の弦楽器の総称で、狭義には琴と箏の類を合わせて呼ぶ名称。箏は柱(じ)を胴面に立てて調弦するのに対し、琴は柱を立てない。現在広く使用されているのは箏の方である。奈良時代に中国の宮廷宴饗楽が伝来し、日本の雅楽となると同時に箏も取り入れられた。普通は全長五~六・四尺(一五二~一九四センチメートル)のものを用いる。演奏する際は床または低い台に箏を置いて、演奏者は楽箏(雅楽に用いられる箏)では安座し、楽筝以外の演奏では正座する。右手の親指、人差指、中指にはめた爪で、十三弦の竜角のすぐ左側を掻く。近世以降の俗箏では、左手の手法が発達しており、音に装飾的変化をつけたり、調弦以外の音を出したりすることができる。調弦は多種多様で、実用されていながら名称のない調弦もかなりある。
現在用いられる琴は、全長約百二十五センチメートルの中空の胴をもつ。胴は、頭部が二十センチメートルほどで頭部から尾部に向けて細くなり、途中に二か所のくびれをもつ。絹製の七本の弦は頭部の裏側から胴を貫通させて表板上に張り出し、尾部を覆うようにして裏側に回り、二つの糸巻で止められる。演奏には義甲(つめ)を用いず、小指を除く右手の指で頭部近くを撥弦し、左手で弦を押さえ音高を定める。胴の表面には第一弦に沿って丸い徽(き)がはめ込まれており、左手で弦を押さえる目安とする。古来より奏者自身が楽しむ楽器であるため、音量はかなり小さい。
日本では「琴」を「こと」とも読み、古くは弦楽器一般の総称であったが、現在では長胴チター(琴箏(きんそう)類)の総称として用いたり、さらに通俗的には箏のみをさす語として用いられる。しかし厳密には、「きん」という場合には、調弦のための柱(じ)を用いないものをさし、柱を用いる箏とは区別される。
清原瀧雄氏の講義を、小竹の上と共に聞きながら非常に感銘をお受けになった榎本英則氏は、その夜、ご自分の寝殿にお戻りになると、北方・節紫姫に仰せになった。
「あなたは、明日出仕が非番であったね?」
「はい。」
「小竹の上は、まだまだ清原様の講義を聞かねばならない。明日は、私や小竹の上と一緒に、清原家へ一緒にくるように。だから、今日は早めに休みなさい。今日のように、ゆっくり寝ていることはできないよ。」
「…。」
「私は今日、まだ少し仕事をしてから休むので、あなたはもう寝なさい。もし、明日清原家へきちんと行かないで、寝坊したりしたら、もう二度とあなたと寝所を共にしないよ。」
節紫姫は、英則殿の言葉に蒼ざめて、すぐに休んだ。小竹の上が、清原家へ通った第一目が何となく無事に終了した。
翌日、榎本英則氏・節紫姫・小竹の上の三人が、清原家の寝殿を訪れた。榎本家の人々が、三人でお越しになったのを見ると、まあ清原夏野氏は言われた。
「榎本殿。今日は、北方ご同伴ですかな?そのように、貴殿が北方をお傍から離さないのが、どうやら、貴殿の子沢山の要因のようですな?」
「私は、清原家へ我が家から娘を迎えて頂くにあたり、自分の北方にも、清原家の高い教養を見習わせたいだけであります。」
「そうですか。まあ、良いでしょう。お三方で、お入りなさい。」
この日小竹の上は太鼓についても、興味深い知識を吸収することができた。清原瀧雄氏の講義も、二日目になると、榎本英則氏は、北方・節紫姫やご息女の小竹の上と一緒に、琴の手ほどきを、お受けになった。琴の稽古の後、瀧雄殿の楽器に関する講義が始まった。
和太鼓(わだいこ)は、打楽器の一つであり、日本の太鼓の総称である。和太鼓は、縄文時代には既に情報伝達の手段として利用されていたといわれており、日本における太鼓の歴史は非常に古い。日本神話の天岩戸の場面でも桶を伏せて音を鳴らしたと伝えられている。長野県茅野市にある尖石遺跡では、皮を張って太鼓として使用されていたのではないかと推定される土器も出土している。
雅楽では楽太鼓と呼ばれ、舞台の正面に構えられる。楽節の終わりごとに太鼓の一撃が入り、楽曲全体を統率する重要な要素である。また見た目も支柱の漆塗りをはじめ本体にも色とりどりの装飾が施されている。
神道では古くから太鼓が多く用いられた。神楽(囃子)などにその一端が見られる。単体での演奏の他、篠笛などと組み合わせる演奏も多く見られる。仏教では、法華宗・日蓮宗の団扇太鼓以外では、真言宗などで、護摩焚きの時の般若心経などの読経時に太鼓を使う(法楽太鼓)他は、もっぱら木魚(法華宗・日蓮宗では木柾)と鈴が使われるが、大規模な行事には銅鑼や鉦鼓などと一緒に太鼓が用いられる。このほか仏教と神道の境界が曖昧である農村信仰として、田楽やイタコの口寄せ(交霊)にも太鼓が使われることが多い。
しかし、清原夏野氏や瀧雄殿は、我が日本国の楽器などに造詣が深く、毎日清原家へ通うことで、厳しくてもお二人は、小竹の上のことを、まるで家族の一人のように扱ってくれていた。小竹の上は、もともと母君の節紫姫や橘家へ嫁ぎ、叔母君にあたる小夏の上から、舞と琴の手ほどきを受けておいでになったが、舞は雅楽に合わせた形で指導を受けることが多く、雅楽の中に含まれている様々な楽器については、あまり細かく学ぶ機会を得ておいでになっていなかった。それが、清原家からの申し出によって、毎日清原家へ通うことで、筝の琴以外の楽器についても、また雅楽そのものについても、ある程度詳しく学ぶ機会を得ることがおできになっていた。
清原瀧雄氏の、第一目の楽器に関する講義が始まった。第一日目は、琴であった。
琴は、きんのことやそうのこと、などと呼ばれ、我が日本の伝統楽器である。しかし、琵琶など、楽器の総称が琴、とされていたこともあり、混同のあった時代もある。日本で、こと、と呼ばれる楽器は、琴(こと)、筝(そう)、和琴(わごん)、一弦琴(須磨琴)、二弦琴(八雲琴)がある。」(ここで、瀧雄殿は、半紙に自筆で言葉をいくつか書いたものを何枚か、小竹の上に見せた。そして、講義は続けられた。)
こととそうは、古くから誤用、混用があったが、区別が必要な場合は、それぞれ、琴のこと、筝のこと、と呼ばれる。『筝』では、柱(じ)と呼ばれる可動式の支柱で弦の音程を調節するのに対し、「琴」は、弦を押さえる場所で音程を決めるという特徴を持つ。和琴は柱を使う。指にはめた爪もしくは指、あるいは手の爪で弦を弾いて音を出す。
琴の由来としては、『古事記』などに『こと』を弾く場面がしばしば登場するように、本来『こと』は古くから日本に存在しており、呪術用の楽器として使用された様子がみられる。弥生時代の遺跡からは既に、『こと』と思われる残片が見つかっており、また古墳時代の埴輪にも『こと』や『こと』を弾く人物をかたどったものがある。つまり、『こと』は名称はともかく楽器としては弥生時代から存在していることになる。その『こと』は五本弦が多く、頭部から尾部に向かいやや広がるような形と、尾部に弦を留める突起があるものが多いことなどから、今日の和琴(わごん)の原型であると思われる。現在も最も普通に『こと』と呼ばれる箏が唐の国から渡来したのは、平城京ができてからのことである。
和琴とは別に、平城京の時代に渡来した「琴」(きんのこと)は唐の国宮廷内の祭祀にまつわる楽器として、弦楽器の中でも重要視されていた。もともと日本では、弦楽器を、人間が息を吹きこまねば演奏できない、管楽器よりも高尚なものとしていた。当時弦楽器は全て、「○○のこと」と呼び習わされていた。醍醐天皇~村上天皇の治世の頃には、「琴のこと」の奏者は少数しか登場しないなど、早くに廃れていたことが解る。ちなみに琴の奏者は、多くが皇族または皇室に深いかかわりを持つ人物である。
倭琴(やまとごと)の祖形となる古代琴は、板作りと共鳴装置をもつ槽作り(ふねつくり)の二種に分類される。この内、板作りの琴は、細長い板の表面に弦を張る構造であり、縄文時代から確認されている。出土例として、北海道小樽市忍路土場(おしょろどば)遺跡、滋賀県彦根市松原内湖遺跡、青森県八戸市是川遺跡などから、縄文時代後期から晩期にかけての縄文琴が出土している。ただし、弦の張り方や琴頭の形が弥生時代後期の琴と異なることから、縄文琴の伝統は途切れ、弥生時代から倭琴の新たな伝統は始まったものと考えられる。似たような楽器として、アイヌのトンコリがある。三〇〇〇年前の青森是川中居遺跡から出土した木製品は世界最古の弦楽器の可能性があり、弥生時代の登呂遺跡などから出土した原始的な琴と似ていることから、日本の琴の原型ではないかと推測されている。
伊勢神道の書物『御鎮座本紀』には、「アメノウズメが天香具弓(あまのかぐゆみ)を並べて叩いたのが琴の始まり」と記述されており、中世神話上では、その起源を「女神が並べた弓から始まったもの」と解釈された。
このように、元来、和語(大和言葉)の「こと」という言葉は、現在の和琴の元となった弥生時代以来の「こと」から発して、奈良時代以降大陸から多数の弦楽器が渡来したとき、それら弦楽器全般を総称する言葉ともなった。この「琴」という字を「こと」と訓じたために、言葉の使われ方に多少の混乱がある。
常陸国住人に琴御館宇志丸(ことのみたち うしまる)という者がおり、ひとりでに鳴る琴を所有しており、敵対勢力が来ると音を鳴らし、宇志丸に教えたため、事前に兵を集められ、徹底して防戦ができ、戦に負けることがなかった。このため、敵側は偽りの和睦を結び、宇志丸の娘を嫁とするが、その嫁を用いて、秘密裏に琴の弦を切らせた。これにより宇志丸は敵兵が進軍しても気づかず、琴の弦が切られたことに気づいた時には、敗戦し、常勝を重ねることはなくなり、敗戦を重ねた結果、近江国滋賀郡に流浪して着き、日吉神人(神主)の祖先となった。
この説話は『続群書類従』所収「耀天記」に記述されたもので、「霊的な琴」といったように、日本風に(神道観で)構成し直されており、日本文化における琴の信仰観がわかる伝説である。
琴とはまず、広義には東洋の弦楽器の総称で、狭義には琴と箏の類を合わせて呼ぶ名称。箏は柱(じ)を胴面に立てて調弦するのに対し、琴は柱を立てない。現在広く使用されているのは箏の方である。奈良時代に中国の宮廷宴饗楽が伝来し、日本の雅楽となると同時に箏も取り入れられた。普通は全長五~六・四尺(一五二~一九四センチメートル)のものを用いる。演奏する際は床または低い台に箏を置いて、演奏者は楽箏(雅楽に用いられる箏)では安座し、楽筝以外の演奏では正座する。右手の親指、人差指、中指にはめた爪で、十三弦の竜角のすぐ左側を掻く。近世以降の俗箏では、左手の手法が発達しており、音に装飾的変化をつけたり、調弦以外の音を出したりすることができる。調弦は多種多様で、実用されていながら名称のない調弦もかなりある。
現在用いられる琴は、全長約百二十五センチメートルの中空の胴をもつ。胴は、頭部が二十センチメートルほどで頭部から尾部に向けて細くなり、途中に二か所のくびれをもつ。絹製の七本の弦は頭部の裏側から胴を貫通させて表板上に張り出し、尾部を覆うようにして裏側に回り、二つの糸巻で止められる。演奏には義甲(つめ)を用いず、小指を除く右手の指で頭部近くを撥弦し、左手で弦を押さえ音高を定める。胴の表面には第一弦に沿って丸い徽(き)がはめ込まれており、左手で弦を押さえる目安とする。古来より奏者自身が楽しむ楽器であるため、音量はかなり小さい。
日本では「琴」を「こと」とも読み、古くは弦楽器一般の総称であったが、現在では長胴チター(琴箏(きんそう)類)の総称として用いたり、さらに通俗的には箏のみをさす語として用いられる。しかし厳密には、「きん」という場合には、調弦のための柱(じ)を用いないものをさし、柱を用いる箏とは区別される。
清原瀧雄氏の講義を、小竹の上と共に聞きながら非常に感銘をお受けになった榎本英則氏は、その夜、ご自分の寝殿にお戻りになると、北方・節紫姫に仰せになった。
「あなたは、明日出仕が非番であったね?」
「はい。」
「小竹の上は、まだまだ清原様の講義を聞かねばならない。明日は、私や小竹の上と一緒に、清原家へ一緒にくるように。だから、今日は早めに休みなさい。今日のように、ゆっくり寝ていることはできないよ。」
「…。」
「私は今日、まだ少し仕事をしてから休むので、あなたはもう寝なさい。もし、明日清原家へきちんと行かないで、寝坊したりしたら、もう二度とあなたと寝所を共にしないよ。」
節紫姫は、英則殿の言葉に蒼ざめて、すぐに休んだ。小竹の上が、清原家へ通った第一目が何となく無事に終了した。
翌日、榎本英則氏・節紫姫・小竹の上の三人が、清原家の寝殿を訪れた。榎本家の人々が、三人でお越しになったのを見ると、まあ清原夏野氏は言われた。
「榎本殿。今日は、北方ご同伴ですかな?そのように、貴殿が北方をお傍から離さないのが、どうやら、貴殿の子沢山の要因のようですな?」
「私は、清原家へ我が家から娘を迎えて頂くにあたり、自分の北方にも、清原家の高い教養を見習わせたいだけであります。」
「そうですか。まあ、良いでしょう。お三方で、お入りなさい。」
この日小竹の上は太鼓についても、興味深い知識を吸収することができた。清原瀧雄氏の講義も、二日目になると、榎本英則氏は、北方・節紫姫やご息女の小竹の上と一緒に、琴の手ほどきを、お受けになった。琴の稽古の後、瀧雄殿の楽器に関する講義が始まった。
和太鼓(わだいこ)は、打楽器の一つであり、日本の太鼓の総称である。和太鼓は、縄文時代には既に情報伝達の手段として利用されていたといわれており、日本における太鼓の歴史は非常に古い。日本神話の天岩戸の場面でも桶を伏せて音を鳴らしたと伝えられている。長野県茅野市にある尖石遺跡では、皮を張って太鼓として使用されていたのではないかと推定される土器も出土している。
雅楽では楽太鼓と呼ばれ、舞台の正面に構えられる。楽節の終わりごとに太鼓の一撃が入り、楽曲全体を統率する重要な要素である。また見た目も支柱の漆塗りをはじめ本体にも色とりどりの装飾が施されている。
神道では古くから太鼓が多く用いられた。神楽(囃子)などにその一端が見られる。単体での演奏の他、篠笛などと組み合わせる演奏も多く見られる。仏教では、法華宗・日蓮宗の団扇太鼓以外では、真言宗などで、護摩焚きの時の般若心経などの読経時に太鼓を使う(法楽太鼓)他は、もっぱら木魚(法華宗・日蓮宗では木柾)と鈴が使われるが、大規模な行事には銅鑼や鉦鼓などと一緒に太鼓が用いられる。このほか仏教と神道の境界が曖昧である農村信仰として、田楽やイタコの口寄せ(交霊)にも太鼓が使われることが多い。