榎本氏
 書斎へ侍女が持参した小夏の上からの文に目を通すと、節紫姫は急いで英則殿の書斎へ行かれた。
 「殿、おはようございます。小夏の上様から、昨夜の文に対するご返事が参りました。私が小竹の上に付き添うことを、ご了解下さいました。」
 「そうか。あなたも困った人だな。まあ、三人で清原宅へ押しかけたら、清原様から何を言われても我慢することだな。」
 「畏まりました。」
 こうして三日目も、榎本英則氏と節紫姫、それに小竹の上は、清原家を三人で訪れた。三人を迎えた清原夏野氏は、言われた。
「これは、これは。また、三名で参られましたか。賑やかで非常に宜しいですな。どうぞ、お入りください。」
「北方がどうしても、と申しまして、失礼致します。」
「小竹の上殿が、いかにご両親に大切にされてきたかが、分かりますな。」
この日は三人で無我夢中になって、清原夏野氏と瀧雄氏から、五節の舞の手ほどきを受けた後、瀧雄殿の琵琶についての講義があった。

 琵琶は、ビバ、と呼ばれた七、八世紀(六〇一年から八〇〇年)頃、中国から日本に入った。正倉院の宝物として伝来当時の琵琶が遺されている。半開の扇もしくは銀杏の葉の形に似た撥(棙)で弦(絃)を弾奏するのが特徴。 五弦琵琶、楽琵琶、平家琵琶、盲僧琵琶、唐琵琶、薩摩琵琶、筑前琵琶などの種類がある。それぞれの楽器は特有の音楽を持ち、その世界の中では単に「琵琶」と称される。またこれら異種の琵琶同士が合奏されることはまずない。また、琵琶を主体とした音楽を「琵琶楽」と総称する。
 五弦琵琶は奈良時代より中国から伝来した。聖武天皇に献上され、その後、正倉院に収められた螺鈿紫檀五弦琵琶は、世界に残る唯一の古代の五弦琵琶である。この五弦琵琶は、南インド産の紫檀に螺鈿細工をほどこしたもので、インドから中央アジアの亀茲国経由で唐に入り、日本にもたらされたとされる。五弦琵琶が他に見当たらない理由として、音域が四弦琵琶よりも狭く、演奏法も難しかったからという。
 楽琵琶は雅楽の管絃、催馬楽(さいばら)に用いる琵琶である。標準的なものとしては日本の琵琶の中で最も大きく、奈良時代に伝えられた唐代琵琶の形をほとんどそのまま現代に伝えている。撥は逆に最も小さい。現在は合奏の中で分散和音を奏しながら的に支える役目をしている。
 天平琵琶譜(奈良時代、天平十年頃、西暦七三八年頃、正倉院蔵)は、かつて、独奏曲もあり、琵琶の三大秘曲として「楊真操」、「啄木」、「流泉」などが知られたが、現在に伝えられていない。また様々な技法も存在したようである。しかし、これらの曲の楽譜は現存しており、宮内庁楽部楽長多忠麿によって復曲が試みられ、演奏の録音もおこなわれた。
 古くから愛された楽器で、文芸作品にもしばしば登場する。吉備真備、蝉丸、平経正など名人、名手といわれた人も多く、また多くの名器が伝えられている。おおらかで豊かな音色を持ち、後世の諸琵琶との大きな違いは、他の楽器との合奏に用いられること、調ごとに調弦法が変わること、「さわり」の機構がないこと、左手の押弦が、柱の間で絃を押さえる張力を変化させて音程を変える奏法がないこと、また小指まで使用すること、などである。

 清原瀧雄氏の講義が三日目ともなると、講義が終わって一番興奮していたのは、何といっても節紫姫であった。

 四日目も、榎本家は清原氏の寝殿へ、足を向けるにあたり、三人で行かれた。この日も、いつものように舞と琴の稽古の後、清原瀧雄氏の講義は、笛に関して行われた。

 笛(ふえ)は気流によって音を出す器具一般を指す。元来「吹き鳴らすもの」を意味し、現在では楽器、玩具、合図、警報など広い用途で用いられる。語源は吹柄、吹枝(いずれもフキエないしフクエ)といわれるが異説も多い。文献上の初出は日本書紀の「天之鳥笛」であるが詳しい形状などは不明である。万葉仮名では「輔曳」と表記された。
 平城・平安京時代において笛というと主に雅楽の管楽器であり、現在の龍笛(竜笛)、笙、篳篥、高麗笛、神楽笛のほか尺八、簫(しょう)なども用いられていた。このうち笙、篳篥は後に笛とは区別されるようになる。神楽笛は大和笛とも呼ばれることから、大陸から龍笛や高麗笛が伝来する以前の日本に、すでに笛が存在していたと考えられる。事実、奈良県天理市星塚一号古墳(古墳時代後期)から横笛と思しき遺物が出土している。ただし、これは平城京時代以降の横笛の形状とは異なる点も多い。
 まず、笛といのは、日本における吹いて鳴らす楽器の総称である。語源はフキエ(吹柄・吹枝)あるいはフキイルネ(吹気入音)の略など諸説あり、さだかではない。今日笛という語はもっとも広義には、吹き方、簧(こう)のあるなし、形態を問わず、吹奏楽器の総称の意味で用いられるが、狭義にはこのうち横笛のみをさすことが多い。これは日本ではとくに横笛が優れて発達したためで、世界には横笛をもたない民族も多いことを考え合わせると、横笛の発達は日本音楽の特徴の一つといえよう。
 日本における笛の歴史は古く、『古事記』や『日本書紀』にも記述がみられる。古来、日本人は音楽のことを「ふえつづみ」と呼び習わして親しんできたが、最古の笛がどのような形態であったのかは不明である。
 取り分け横笛に関しては、雅楽で用いられる横笛に神楽笛(かぐらぶえ)(和笛(やまとぶえ)、太笛(ふとぶえ))、竜笛(りゅうてき)(横笛(おうてき))、高麗(狛)笛(こまぶえ)の3種があるが、雅楽で「笛」というととくに竜笛のことだけをさす。神楽笛はほかの二つが大陸から輸入される以前に存在した日本古来の笛だともいわれるが、さだかではない。
 これらの横笛はすべて竹製で、竹の表面そのままのものと、割れにくいように表面をカバやサクラの皮で巻いて漆を塗って固めたものとがある。後者は乾湿の変化の激しい気候にあわせた日本独特のくふうである。指孔は六孔または七孔だが、吹口と指孔にキーのような特別の仕掛けはなく、その簡素な構造ゆえに可能な、微妙な息づかいや指づかいの妙技により、微小音程や音色のあやを粋(すい)とする繊細で豊かな表現を生み出している。
 丸型・容器型のものとして石に穴をあけて吹く石笛や岩笛、土で壺(つぼ)型をつくってそれに吹口と指孔をつけた土笛(中国の(けん)と同型)なども古代の遺跡から発掘されている。このほか雅楽の笙(しょう)や山伏の楽器ともいえる法螺貝(ほらがい)、さらに草笛・麦笛など自然の植物を利用したものや、口笛、指笛なども広義には笛に入れられよう。

 小竹の上にとっては、横笛についても、縦笛についても詳しい清原瀧雄殿の講義が非常に有意義であった。しかし、清原家へ通い始めてから既に四日経っている小竹の上は、この日あたりから、自分には少しも興味を示してくれない瀧雄殿に、不安を抱き始めていた。この日、清原家から戻ると、小竹の上が母君・節紫姫を訪ねてきたため、榎本英則氏と節紫姫の夫婦の営みはできなかった。節紫姫は、自分の書斎を訪ねてきた小竹の上を見ると、言った。
 「どうしたのですか?」
 「お母様。一体どうしたらよいのでしょう?瀧雄様は、全然私に興味を持ってくれません。」
 「小竹の上。瀧雄様は、まだまだ大切なご講義があるのです。もう少し待ちましょう。」
 流石の小竹の上も、この時は母君に対して、何も反論することはできなかった。

 その翌日はついに五日目であった。三人で、清原家を訪れた榎本家は、いつも通り舞と琴の稽古の後、雅楽について語る、清原瀧雄氏の講義をお聞きになった。
< 23 / 27 >

この作品のキーワード

この作品をシェア

pagetop