榎本氏
古代中国に発生した儀式音楽で,歌や舞を伴う器楽合奏曲。中国から東アジアの王朝国家に伝えられたが,今日中国では衰滅してしまい,おもに日本と朝鮮においてその伝統を保ちつつ独自の発展をとげている。
日本古来の古楽に大陸から渡来した音楽や舞いが加わって融合した芸術で、十世紀頃完成し、皇室の保護の下で伝えられてきた。神楽、久米舞、五節(ごせちの)舞など国風(くにぶり)の歌舞、中国系の唐楽、朝鮮系の高麗(こま)楽などがある。
雅楽とは、平城京時代に朝鮮や中国などから伝来した音楽,およびそれに伴う舞のことを言う。また,それを模倣して日本で作られたもの。右楽(うがく)と左楽(さがく)に大別される。舞を伴わないものを管弦,舞のあるものを舞楽という。神楽・東遊(あずまあそ)び・久米舞(くめまい)・催馬楽(さいばら)・朗詠などを含めてもいう。宮廷音楽として平安時代に栄え,寺社でも演奏された。正楽(せいがく)ともいう。古代中国を起源とし日本、朝鮮、ベトナムなどに広く伝わった音楽である。「雅正の楽」の意で、国家の荘厳(しょうごん)をなすために用いられ、民衆の間で親しまれる「俗楽」と区別される。宮廷・寺社の儀礼・祭礼における正式な音楽で、大規模な楽器編成をもち、歌舞を伴うことが多い。中国の文化的・思想的影響のもとに各国で独自の分野がつくられ、それぞれの民族固有の楽器も使用される。現在中国では衰滅し、その他の国で伝承されている。
まず、中国の雅楽は、狭義には儒教思想に基づく天地宗廟(そうびょう)のための祭祀(さいし)の楽を意味し、広義にはこれに宮廷の娯楽用の楽である宴饗楽(えんきょうがく)を含む。
雅楽の名称は春秋時代に孔子(前五五二―前四七九)が、鄭(てい)・衛国の音楽を鄭声(ていせい)、舜(しゅん)帝や周の文王・武王の作といわれる音楽を雅声と称し、とくに後者を尊んだことに始まる。伝説には周の文王・武王のとき(前十二世紀)すでに文武の舞が定められ、六律六呂(りくりつりくりょ)、五声八音六舞をもって大合奏をしたという。戦国時代になると、諸子百家争鳴のなかで儒家が礼を尊び仁を最高の徳とする礼楽思想を唱え、これを思想的に表現する正統な音楽として雅楽を位置づけた。当時は祖先を祀(まつ)る「廟祭(びょうさい)楽」、天地自然の神を祀る「郊祀(こうし)楽」、朝廷の娯楽用の「宴饗楽」の三種があり、楽器は琴(きん)・鐘(しょう)・瑟(しつ)・磬(けい)・管(かん)・籥(やく)・笙(しょう)・(ち)・缶(ふ)・・(ぎょ)・鼓(こ)など約二十種を用いたという。これらの楽器は儒教の陰陽五行説と結んで、宇宙を構成する八つの要素、金・石・絹・竹・匏(ふくべ)・土・革・木という分類に従って、各材質により八つに分けられた。これを「八音」という。秦(しん)の始皇帝は文教統一政策をとり雅楽はいったん停滞したが、続く漢代では前漢の高祖(在位前二〇六~前一九五)が周制の宗廟祭祀の楽を復興するとともに太楽(たいがく)署という雅楽を担当する機関を設け、雅楽は制度的にも確立された。以後代々の皇帝が楽曲の補充と整備に努め、後漢(ごかん)の章帝(在位七五~八八)は郊祀楽として、黄帝・堯(ぎょう)帝・舜帝ら六帝王の徳をたたえる「六代の楽」を制定した。このころには周伝来の各種の楽器に新しく西方伝来の琵琶(びわ)、箜篌(くご)などを加え、全部で約三〇種の楽器が使われ、周制では独立していた歌舞が器楽とともに演じられるようになった。三国時代から晋(しん)・南北朝・隋(ずい)時代は政情が不安定で、雅楽の発展はみられない。南朝宋(そう)では武帝(在位四二〇~四二二)、文帝(在位四二四~四五三)、孝武帝(在位四五三~四六四)らが雅楽の復興を企て、隋では牛弘が五八九年に宋・斉(せい)両朝の雅楽を採用したが効果は少なく、むしろ国家変動に乗じて伝来した西域(せいいき)楽・朝鮮楽と中国の俗楽が融合した宴饗楽(後の燕(えん)楽)に進展がみられ、宮廷で重んじられた。
雅楽が国際的な音楽として内容を充実させたのは唐時代である。唐代の雅楽には、国家行事に用いられる宴饗楽(狭義の雅楽)、宮廷の娯楽として北方東胡(こ)民族の音楽を取り入れた胡楽、漢以来中国固有の俗楽があった。日本にはこの唐代の俗楽が雅楽として伝わったといわれる。初代高祖(在位六一八~六二六)は六二六年『予和』『順和』『永和』など十二の曲を集めた「十二和の楽」を制定し(「大唐雅楽」という)、玄宗(在位七一三~七五五)は七一八年これにさらに『械和』『豊和』『宣和』の三和を加えて大成した。この雅楽を唐代最高峰のものとしてとくに「開元雅楽」という。元代の書『文献通考』によれば、この雅楽は「堂上登歌(とうか)」と「堂下楽懸(がくけん)」が交替して行われるもので、前者は歌を主体に器楽合奏のついたもの、後者は総勢三〇〇人余りも要する舞と器楽の融合したものであったという。このうち堂下楽懸が朝鮮に下賜され、現在朝鮮の雅楽はこの古制を伝えていると考えられる。また隋の楽官、鄭訳(ていやく)(五四〇―五九一)が考案した七声十二律八四調の理論が、唐代では胡楽・俗楽の調名を十数個取り入れた形で新たに完成された。これは、一つの調は一定の七音音階からなる「律」というもので規定されるとするもので、すべて「律」の階名は宮(きゅう)・商(しょう)・角(かく)・変徴(ち)・徴・羽(う)・変宮を基本とする。一つの律に対して各音を主音としてつくられた宮調・商調・角調などの調がつねに七通り成り立ち、十二律に対してその七倍の八四調が成り立つという理論である。その一部が日本に伝わり雅楽の「六調子」となった。
次に、朝鮮の雅楽は、他の民俗音楽と区別して「正楽(せいがく)」ともいう。狭義には文宣王(ぶんせんおう)廟(略して文廟)という中国から伝来した孔子廟の祭祀の楽を、広義にはそれに俗楽・宴楽・軍楽を加えた李(り)王家に伝わる宮廷音楽全体をさす。俗楽はさらに宗廟の祭楽と宮中の宴礼に用いる法楽からなる。文廟の祭楽は中国の古制に従い春秋の二季に行われ、宗廟の祭楽は宗廟をはじめ先農・社稷(しゃしょく)・永寧殿など各種の祭祀に行われる。いずれの祭楽においても楽器編成の異なる2種の楽、軒架(けんか)楽と登歌(とうか)楽が交互に繰り返され、文武の舞(いつぶ/いつまい)が舞われる。楽器はそれぞれの楽について編鐘(へんしょう)・編磬(へんけい)・篥(ひちりき)・(くん)・(ち)・拍(はく)・(しゅく)・(ぎょ)など十四~十五種類が用いられ、演奏者は歌を担当する人々とともに所定の位置に配置される。舞は中国伝来の群舞で、六列六行三十六人で舞う「六の舞」と、八列八行で舞う「八の舞」がある。宮中の宴礼楽である法楽は、編鐘・特鐘・編磬・特磬・笙(しょう)・琵琶(びわ)・洞簫(とうしょう)など20種以上の楽器が用いられ、宋から伝来したものや、李朝の太宗・世宗・純祖のときつくられたものなど42曲がある。高麗(こうらい)朝伝来の『太平春之曲』、李朝世祖のときの『表正万方曲』などは、それぞれ「本令」「霊山会相」などという俗称でよばれ、しばしば演奏されている。
神道系のものとしては、神楽(かぐら)・東遊(あずまあそび)・大直日歌(おおなおびのうた)・倭歌(やまとうた)・大歌(おおうた)・久米歌(くめうた)・誄歌(るいか)。古来より神の招魂・鎮魂を祈願して行われる神道(しんとう)の儀礼に用いられるもの。天皇即位式典の久米歌、春分の日の皇霊祭に行われる東遊など、宮中の特定の儀礼において非公開で奏されることが多い。神楽は里神楽と区別して御神楽(みかぐら)ともいう。神楽歌・東遊歌などと称していずれも特定の歌詞を歌い、葬儀に用いる誄歌を除いてはすべて倭舞(やまとまい)・久米舞(くめまい)などと称する舞を伴う。楽器編成は原則的に神楽笛あるいは竜笛(りゅうてき)・篳篥(ひちりき)・和琴(わごん)・笏拍子(しゃくびょうし)各1人で、日本在来の神楽笛・和琴・笏拍子を用いることに特色がある。篳篥・神楽笛(または竜笛)は歌の旋律に沿って演奏する。
大陸系のものとしては、唐楽(舞楽と管絃(かんげん))・高麗楽(こまがく)(舞楽のみ)。五世紀より日本に伝来したさまざまな大陸の音楽は、九世紀なかばに唐楽・林邑楽(りんゆうがく)など中国系の音楽を主体とする唐楽と、三韓楽・渤海楽(ぼっかいがく)など朝鮮系の音楽を主体とする高麗楽に整理統合され、その二分野が今日まで踏襲される。現在唐楽は約八十曲、高麗楽は約二十曲ある。唐楽・高麗楽とも舞を伴う「舞楽」を主体とするが、唐楽には純粋な器楽合奏である「管絃」の演奏形態がある。
雅楽の歴史は五世紀から八世紀にかけてのアジア諸地域の音楽の伝来に始まる。『日本書紀』には允恭(いんぎょう)天皇崩御のとき(四六〇?)新羅(しらぎ)の楽人が多数参列し、六一二年(推古天皇二十)には百済(くだら)の味摩之(みまし)が大和(やまと)桜井で伎楽(ぎがく)を教授したという記述がある。新羅・百済・高句麗(こうくり)の音楽は三韓楽と称され、六八三年(天武 天皇十二)には宮廷で奏されたという。七三六年(天平八)には林邑楽(りんゆうがく)が仏哲によって、そのほか年代は明らかでないが度羅楽(とらがく)・渤海楽(ぼっかいがく)も同じころ渡来したという。六三〇年(舒明天皇二)からは遣唐使の派遣によって唐楽が伝えられ、これら諸国の音楽は仏教の荘厳(しょうごん)として積極的に摂取された。七〇一年(大宝一)には大宝律令(たいほうりつりょう)により治部省のもとに雅楽寮が置かれ、和楽とともに三韓楽・唐楽が宮廷の楽舞として教習されることとなった。多様な外来楽は制度的に広められ、仁明(にんみょう)天皇(在位八三三~八五〇)のころから約半世紀にわたってしだいに日本的なものに改変されていく。これを「平安の楽制改革」と称する。
日本古来の古楽に大陸から渡来した音楽や舞いが加わって融合した芸術で、十世紀頃完成し、皇室の保護の下で伝えられてきた。神楽、久米舞、五節(ごせちの)舞など国風(くにぶり)の歌舞、中国系の唐楽、朝鮮系の高麗(こま)楽などがある。
雅楽とは、平城京時代に朝鮮や中国などから伝来した音楽,およびそれに伴う舞のことを言う。また,それを模倣して日本で作られたもの。右楽(うがく)と左楽(さがく)に大別される。舞を伴わないものを管弦,舞のあるものを舞楽という。神楽・東遊(あずまあそ)び・久米舞(くめまい)・催馬楽(さいばら)・朗詠などを含めてもいう。宮廷音楽として平安時代に栄え,寺社でも演奏された。正楽(せいがく)ともいう。古代中国を起源とし日本、朝鮮、ベトナムなどに広く伝わった音楽である。「雅正の楽」の意で、国家の荘厳(しょうごん)をなすために用いられ、民衆の間で親しまれる「俗楽」と区別される。宮廷・寺社の儀礼・祭礼における正式な音楽で、大規模な楽器編成をもち、歌舞を伴うことが多い。中国の文化的・思想的影響のもとに各国で独自の分野がつくられ、それぞれの民族固有の楽器も使用される。現在中国では衰滅し、その他の国で伝承されている。
まず、中国の雅楽は、狭義には儒教思想に基づく天地宗廟(そうびょう)のための祭祀(さいし)の楽を意味し、広義にはこれに宮廷の娯楽用の楽である宴饗楽(えんきょうがく)を含む。
雅楽の名称は春秋時代に孔子(前五五二―前四七九)が、鄭(てい)・衛国の音楽を鄭声(ていせい)、舜(しゅん)帝や周の文王・武王の作といわれる音楽を雅声と称し、とくに後者を尊んだことに始まる。伝説には周の文王・武王のとき(前十二世紀)すでに文武の舞が定められ、六律六呂(りくりつりくりょ)、五声八音六舞をもって大合奏をしたという。戦国時代になると、諸子百家争鳴のなかで儒家が礼を尊び仁を最高の徳とする礼楽思想を唱え、これを思想的に表現する正統な音楽として雅楽を位置づけた。当時は祖先を祀(まつ)る「廟祭(びょうさい)楽」、天地自然の神を祀る「郊祀(こうし)楽」、朝廷の娯楽用の「宴饗楽」の三種があり、楽器は琴(きん)・鐘(しょう)・瑟(しつ)・磬(けい)・管(かん)・籥(やく)・笙(しょう)・(ち)・缶(ふ)・・(ぎょ)・鼓(こ)など約二十種を用いたという。これらの楽器は儒教の陰陽五行説と結んで、宇宙を構成する八つの要素、金・石・絹・竹・匏(ふくべ)・土・革・木という分類に従って、各材質により八つに分けられた。これを「八音」という。秦(しん)の始皇帝は文教統一政策をとり雅楽はいったん停滞したが、続く漢代では前漢の高祖(在位前二〇六~前一九五)が周制の宗廟祭祀の楽を復興するとともに太楽(たいがく)署という雅楽を担当する機関を設け、雅楽は制度的にも確立された。以後代々の皇帝が楽曲の補充と整備に努め、後漢(ごかん)の章帝(在位七五~八八)は郊祀楽として、黄帝・堯(ぎょう)帝・舜帝ら六帝王の徳をたたえる「六代の楽」を制定した。このころには周伝来の各種の楽器に新しく西方伝来の琵琶(びわ)、箜篌(くご)などを加え、全部で約三〇種の楽器が使われ、周制では独立していた歌舞が器楽とともに演じられるようになった。三国時代から晋(しん)・南北朝・隋(ずい)時代は政情が不安定で、雅楽の発展はみられない。南朝宋(そう)では武帝(在位四二〇~四二二)、文帝(在位四二四~四五三)、孝武帝(在位四五三~四六四)らが雅楽の復興を企て、隋では牛弘が五八九年に宋・斉(せい)両朝の雅楽を採用したが効果は少なく、むしろ国家変動に乗じて伝来した西域(せいいき)楽・朝鮮楽と中国の俗楽が融合した宴饗楽(後の燕(えん)楽)に進展がみられ、宮廷で重んじられた。
雅楽が国際的な音楽として内容を充実させたのは唐時代である。唐代の雅楽には、国家行事に用いられる宴饗楽(狭義の雅楽)、宮廷の娯楽として北方東胡(こ)民族の音楽を取り入れた胡楽、漢以来中国固有の俗楽があった。日本にはこの唐代の俗楽が雅楽として伝わったといわれる。初代高祖(在位六一八~六二六)は六二六年『予和』『順和』『永和』など十二の曲を集めた「十二和の楽」を制定し(「大唐雅楽」という)、玄宗(在位七一三~七五五)は七一八年これにさらに『械和』『豊和』『宣和』の三和を加えて大成した。この雅楽を唐代最高峰のものとしてとくに「開元雅楽」という。元代の書『文献通考』によれば、この雅楽は「堂上登歌(とうか)」と「堂下楽懸(がくけん)」が交替して行われるもので、前者は歌を主体に器楽合奏のついたもの、後者は総勢三〇〇人余りも要する舞と器楽の融合したものであったという。このうち堂下楽懸が朝鮮に下賜され、現在朝鮮の雅楽はこの古制を伝えていると考えられる。また隋の楽官、鄭訳(ていやく)(五四〇―五九一)が考案した七声十二律八四調の理論が、唐代では胡楽・俗楽の調名を十数個取り入れた形で新たに完成された。これは、一つの調は一定の七音音階からなる「律」というもので規定されるとするもので、すべて「律」の階名は宮(きゅう)・商(しょう)・角(かく)・変徴(ち)・徴・羽(う)・変宮を基本とする。一つの律に対して各音を主音としてつくられた宮調・商調・角調などの調がつねに七通り成り立ち、十二律に対してその七倍の八四調が成り立つという理論である。その一部が日本に伝わり雅楽の「六調子」となった。
次に、朝鮮の雅楽は、他の民俗音楽と区別して「正楽(せいがく)」ともいう。狭義には文宣王(ぶんせんおう)廟(略して文廟)という中国から伝来した孔子廟の祭祀の楽を、広義にはそれに俗楽・宴楽・軍楽を加えた李(り)王家に伝わる宮廷音楽全体をさす。俗楽はさらに宗廟の祭楽と宮中の宴礼に用いる法楽からなる。文廟の祭楽は中国の古制に従い春秋の二季に行われ、宗廟の祭楽は宗廟をはじめ先農・社稷(しゃしょく)・永寧殿など各種の祭祀に行われる。いずれの祭楽においても楽器編成の異なる2種の楽、軒架(けんか)楽と登歌(とうか)楽が交互に繰り返され、文武の舞(いつぶ/いつまい)が舞われる。楽器はそれぞれの楽について編鐘(へんしょう)・編磬(へんけい)・篥(ひちりき)・(くん)・(ち)・拍(はく)・(しゅく)・(ぎょ)など十四~十五種類が用いられ、演奏者は歌を担当する人々とともに所定の位置に配置される。舞は中国伝来の群舞で、六列六行三十六人で舞う「六の舞」と、八列八行で舞う「八の舞」がある。宮中の宴礼楽である法楽は、編鐘・特鐘・編磬・特磬・笙(しょう)・琵琶(びわ)・洞簫(とうしょう)など20種以上の楽器が用いられ、宋から伝来したものや、李朝の太宗・世宗・純祖のときつくられたものなど42曲がある。高麗(こうらい)朝伝来の『太平春之曲』、李朝世祖のときの『表正万方曲』などは、それぞれ「本令」「霊山会相」などという俗称でよばれ、しばしば演奏されている。
神道系のものとしては、神楽(かぐら)・東遊(あずまあそび)・大直日歌(おおなおびのうた)・倭歌(やまとうた)・大歌(おおうた)・久米歌(くめうた)・誄歌(るいか)。古来より神の招魂・鎮魂を祈願して行われる神道(しんとう)の儀礼に用いられるもの。天皇即位式典の久米歌、春分の日の皇霊祭に行われる東遊など、宮中の特定の儀礼において非公開で奏されることが多い。神楽は里神楽と区別して御神楽(みかぐら)ともいう。神楽歌・東遊歌などと称していずれも特定の歌詞を歌い、葬儀に用いる誄歌を除いてはすべて倭舞(やまとまい)・久米舞(くめまい)などと称する舞を伴う。楽器編成は原則的に神楽笛あるいは竜笛(りゅうてき)・篳篥(ひちりき)・和琴(わごん)・笏拍子(しゃくびょうし)各1人で、日本在来の神楽笛・和琴・笏拍子を用いることに特色がある。篳篥・神楽笛(または竜笛)は歌の旋律に沿って演奏する。
大陸系のものとしては、唐楽(舞楽と管絃(かんげん))・高麗楽(こまがく)(舞楽のみ)。五世紀より日本に伝来したさまざまな大陸の音楽は、九世紀なかばに唐楽・林邑楽(りんゆうがく)など中国系の音楽を主体とする唐楽と、三韓楽・渤海楽(ぼっかいがく)など朝鮮系の音楽を主体とする高麗楽に整理統合され、その二分野が今日まで踏襲される。現在唐楽は約八十曲、高麗楽は約二十曲ある。唐楽・高麗楽とも舞を伴う「舞楽」を主体とするが、唐楽には純粋な器楽合奏である「管絃」の演奏形態がある。
雅楽の歴史は五世紀から八世紀にかけてのアジア諸地域の音楽の伝来に始まる。『日本書紀』には允恭(いんぎょう)天皇崩御のとき(四六〇?)新羅(しらぎ)の楽人が多数参列し、六一二年(推古天皇二十)には百済(くだら)の味摩之(みまし)が大和(やまと)桜井で伎楽(ぎがく)を教授したという記述がある。新羅・百済・高句麗(こうくり)の音楽は三韓楽と称され、六八三年(天武 天皇十二)には宮廷で奏されたという。七三六年(天平八)には林邑楽(りんゆうがく)が仏哲によって、そのほか年代は明らかでないが度羅楽(とらがく)・渤海楽(ぼっかいがく)も同じころ渡来したという。六三〇年(舒明天皇二)からは遣唐使の派遣によって唐楽が伝えられ、これら諸国の音楽は仏教の荘厳(しょうごん)として積極的に摂取された。七〇一年(大宝一)には大宝律令(たいほうりつりょう)により治部省のもとに雅楽寮が置かれ、和楽とともに三韓楽・唐楽が宮廷の楽舞として教習されることとなった。多様な外来楽は制度的に広められ、仁明(にんみょう)天皇(在位八三三~八五〇)のころから約半世紀にわたってしだいに日本的なものに改変されていく。これを「平安の楽制改革」と称する。