榎本氏
 平安の楽制改革のおもな内容は、一、楽曲・楽舞を唐楽・高麗楽の二分野に整理統合し、前者を左方の楽、後者を右方の楽として対比を明確にしたこと、二、大型の笙である竿(う)・大篳篥・尺八(古代尺八)などが使用されなくなり、日本人の音感にあった楽器を取り合わせて各分野ごとにほぼ今日と同じ楽器編成が整備されたこと、三、中国の音楽理論の影響を受け、唐楽の六調子、高麗楽の三調子が決定されたこと、である。この時期には新作も進み、唐楽では『承和楽』『長慶子(ちょうげいし)』、高麗楽では『仁和(にんな)楽』『延喜(えんぎ)楽』などが作曲された。また八二一年(弘仁十二)「内裏(だいり)式」により宮中儀礼における雅楽の制も正式に定められ、管絃の遊びでも雅楽は盛んに演奏されて、大戸清上(おおとのきよかみ)、尾張浜主(おわりのはまぬし)らの名手を生んだ。
 五世紀前後から中国、朝鮮半島など大陸(南アジアについては、七三六年に大宰府に漂着した林邑(越南)僧から伝えられたとされる舞楽が「林邑楽」と呼ばれ、唐楽に分類される。)から儀式用の音楽や舞踊が伝わるようになり、大宝元年の大宝令によってこれらの音楽とあわせて日本古来の音楽や舞踊を所管する雅楽寮が創設されたのが始まりであるとされる。この頃は唐楽、高麗楽、渤海楽、林邑楽(チャンパの音楽)等大陸各国の音楽や楽器を広範に扱っていた。中国において雅楽といえば儀式に催される音楽であったが、日本の雅楽で中国から伝わったとされる唐楽の様式は、唐の燕楽という宴会で演奏されていた音楽がもとになっているとされる。日本と同様に中国の伝統音楽をとりいれた越南の雅楽や韓国に伝わる国楽とは兄弟関係にあたると言える。天平勝宝四年の東大寺の大仏開眼法要の際には雅楽や伎楽が壮大に演じられるなどこの頃までは大規模な演奏形態がとられていた。また、宮中の他に四天王寺、東大寺、薬師寺や興福寺など一部の大きな寺社では雅楽寮に属さない楽師の集団が法要などの儀式で演奏を担っていた。
 平安京時代になると雅楽寮の規模は縮小され宮中では左右の近衛府の官人や殿上人、寺社の楽人が雅楽の演奏を担うようになった。貴族の間では儀式や法要と関係のない私的な演奏会が催されるようになり、儀式芸能としての雅楽とは性格を異にする宮廷音楽としての雅楽が発展していった。この流れの中で催馬楽、朗詠、今様など娯楽的性格の強い謡物が成立した。唐楽、高麗楽の作風や音楽理論を基にした新曲も盛んに作られるようになった。 また、平安初期から中期にかけては楽制改革と呼ばれる漸進的な変更が行われた。 三韓、渤海の楽は右方の高麗楽として、中国、天竺、林邑などの楽は左方の唐楽として分類された。また、方饗や阮咸など他の楽器で代用できる物や役割の重なる幾つもの楽器が廃止された。この他にいくつかの変更を経て現代の雅楽に近い形が整い本格的に日本独自の様式として発展していく事になる。
 
 翌日六日目も、榎本家は三人で清原家を訪れた。この日は、舞と琴の稽古の後、尺八に関する講義であった。
 
尺八(しゃくはち)は日本の伝統的な木管楽器の一種である。中国の唐を起源とし、日本に伝来した。
 名称は、標準の管長が一尺八寸(約五十四、五cm)であることに由来する。語源に関する有力な説は、『旧唐書』列伝の「呂才伝」の記事によるもので、七世紀はじめの唐の楽人である呂才が、筒音を十二律にあわせた縦笛を作った際、中国の標準音の黄鐘の音を出すものが一尺八寸であったためと伝えられている。演奏者のあいだでは単に竹とも呼ばれる。
 真竹の根元を使い、七個の竹の節を含むようにして作るものが一般的である。上部の歌口に息を吹きつけて音を出す。一般的に手孔は前面に4つ、背面に1つある。
 尺八の起源として有力な説は、前述した『旧唐書』列伝の「呂才伝」の記事によるもので、唐初期の貞観年間(六二七年 – 六四九年)に呂才(六〇〇年 – 六六五年)が考案したというものである。
 日本には雅楽楽器として、七世紀末から8世紀はじめに伝来した。東大寺の正倉院には六孔三節の尺八が八管収められている。
 その後中国では、歌口の傾斜が管の外側にあるタイプの縦笛は断絶し、日本でも雅楽の楽器としての尺八は使われなくなった。
 物理的構造としては、歌口部分・外側に向かって傾斜があり、固い素材が埋め込まれている。現行の尺八は、真竹の根元を使用して作る五孔三節のものである。
 古くは一本の竹を切断せずに延管(のべかん)を作っていたが、現在では一本の竹を中間部で上下に切断してジョイントできるように加工したものが主流である。これは製造時に中の構造をより細密に調整できるとの理由からだが、結果として持ち運びにも便利になった。
 材質は真竹であるが、木製の木管尺八やプラスチックなどの合成樹脂でできた安価な尺八が開発され、おもに初心者の普及用などの用途で使用されている。
 尺八の音色と材質は科学的には無関係とされているが、関係があるとする論争もあった。
 尺八の歌口は、外側に向かって傾斜がついている。現行の尺八には、歌口に、水牛の角・象牙・黒檀などの素材を埋め込んである。
 現行の尺八の管の内部は、管の内側に残った節を削り取り、漆の地(じ)を塗り重ねることで管の内径を精密に調整する。これにより音が大きくなり、正確な音程が得られる。
 これに対し「古管」あるいは「地無し管」と呼ぶ古い種類の尺八は、管の内側に節による突起を残し、漆地も塗らない。正確な音程が得られないため、奏者が音程の補正をする必要がある。古典的な本曲の吹奏では、このひとつひとつの尺八のもつ個性もその魅力となっている。
 筒音ついては、尺八の手孔をすべて塞いだときの音を筒音と呼ぶ。これはその尺八で出すことのできる最低音である。標準の尺八は、日本の十二律で壱越の筒音を持つ一尺八寸管である。次いで、春の海などで使用される一尺六寸管や、二尺四寸管などが使用される。長さのバリエーションは、半音ぶんずつ寸刻みで一尺一寸管から二尺四寸管も存在するが、標準的なものにくらべ使用頻度ははるかにすくない。
 奏法としては、尺八を吹く虚無僧(大国寺 (篠山市)など、尺八は、 奏者が自らの口形によって吹き込む空気の束を調整しなければならない。尺八は手孔(指孔)が五個しか存在しないため、都節音階、七音音階や十二半音を出すために手孔(指孔)を半開したり、めり、かりと呼ばれる技法を多用する。唇と歌口の鋭角部との距離を変化させることで、音高(音程)を変化させる。音高を下げることをめり、上げることをかりと呼ぶ。めり、かりの範囲は開放管(指で手孔を押さえない)の状態に近いほど広くなり、めりでは最大で半音四個ぶん以上になる。通常の演奏に用いる範囲はめりで二半音、かりで一半音程度)。奏者の動作としては楽器と下顎(下唇よりやや下)との接点を支点にして顎を引く(沈める)と「めり」になり、顎を浮かせると「かり」になる。口腔内の形状変化や流量変化等により、倍音構成はよく通る音色や丸く柔らかいものなど、適宜変化させることができる。

 清原瀧雄氏の講義が終わると、英則氏・節紫姫・小竹の上の三人はホッとした。小竹の上の六日目も、その両親と共に何とか無事に終わった。

 翌日も榎本家は三人で、清原家へ押しかけ、舞と琴の稽古の後、鼓に関する清原瀧雄氏の講義であった。

 鼓(つづみ)は日本特有の伝統的な楽器のひとつで、もっとも狭義には小鼓を指す。砂時計型、またはドラム缶型の胴の両面に革を張ってこれを緒で強く張る。緒は、能楽の世界では調緒(しらべお)または「調べ」という。この緒を締めたり緩めたりすることで音色を調節しながら、一方もしくは両方の革を手または桴で打って演奏する。その形態によって小鼓、大鼓、太鼓、羯鼓などがある。発音については、古代林邑の打楽器から出たという説と、中国の都曇鼓(つどんこ)の音から出たという説がある。
 鼓は林邑で発生し、その後、中国で腰鼓(ようこ)、一鼓(壱鼓)(いつこ)、二鼓、三鼓(三ノ鼓)(さんのつづみ)、四鼓、杖鼓(じようこ)等と多数の種類が発生した。これらは総じて細腰鼓(さいようこ)と呼ばれる。腰鼓は腰に下げる細腰鼓で、日本には7世紀初めに伝わり、呉鼓(くれのつづみ)として伎楽に用いられた。一鼓、二鼓、三鼓、四鼓は平城京時代の日本に、唐楽(とうがく)用として伝わった。後に腰鼓、二鼓、四鼓は絶えたが、壱鼓は舞楽に残り、三ノ鼓は高麗楽(こまがく)で使われている。また中国から日本に伝わった民間芸能である散楽(さんがく)にも鼓が使われており、正倉院蔵の「弾弓散楽図」には、鼓を桴や手で打つ様子が描かれている。こうしたさまざまな鼓が中国から伝来し、やがて小鼓、大鼓(おおつづみ)が日本で成立した。
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