榎本氏
第二章 真備の娘
第一節 藤
桓武天皇が七九四年、日本の都を奈良から
京都に移すと、一一八五年に源頼朝が鎌倉幕府を開くまで、我が日本では最も歴史の長い平安時代の幕が開いた。平安遷都の頃より、既に藤原氏が朝廷では重く扱われていた。藤原の姓は、六四五年の大化の改新に功のあった中臣鎌足に最初に与えられ、次いで、鎌足の次男不比等が賜った姓であった。不比等は平安遷都以前から、次女を文武天皇の皇后に、三女を聖武天皇の皇后とし、皇室以外の女性が皇后になる機会を作っていたため、藤原氏の勢力は、長期間不動のものとなっていた。
摂政関白、太政大臣、左右大臣の役職を全て藤原氏の御曹司に奪われてしまうこのご時世に、大中少納言の位に甘んじながら、非常に高い学問を治めていた家柄が数件あった。榎本英樹氏、徳川龍之介氏、満田亀造氏の三氏であった。三氏は代々、優れた武官を輩出していたが、特に榎本氏は、高い武術を身に着けた家柄として、皇室の武官たちを指導する役職にあって、皇室からの信頼が厚かった。また、武装した地方豪族などをうまく従え、子弟に武術を指南させることによって、自身で身辺を固める術も所持していた。榎本英樹氏の父君には、三人のご夫人がおられ、北方とお二人のご側室も、それぞれ五人ずつ若君を設けておいでになった。このうち、北方の長子としてお生まれになったのが、英樹殿であった。英樹殿の父君には、全部で十五人の若君がおられたことになる。英樹殿には、十四人の弟君達がおいでであった。
七六九年四月三日、時の桓武天皇が歌会を主催されることになった。吉備真備の次女・藤姫殿は、七六四頃から既に、毎年皇室が主催する春の曲水の宴と秋の歌会に出席されていた。また、藤姫殿は、同じ七六四年頃から、五節の舞姫としても活躍されており、琴の名手である上に、まるで輝夜姫のようなお美しさであったため、多くの公達の憧れの的となっていた。七六九年四月に催された歌会には、榎本英樹氏も、父君の強い薦めで出席されていた。榎本英樹氏は十八歳、藤姫殿は十五歳であった。藤姫殿が、多くの公達の中から、榎本英樹氏をご自身の伴侶としてお選びになったのは、桓武天皇が主催された歌会で、英樹殿が次のような和歌をお詠みになったらであった。
いたずらに
時を過ごしし
木の葉にも
根付きたる木の
ありしものかは
(ただ意味もなく浮いているような木の葉にも、付いていた木はあるものです。私はあなたにとって、一生安心して付いていられる木でありたい、と考えています。)
この歌に対し、藤姫がこう詠んでいた。
木の葉をぞ
離さず守る
木であれば
常に従う
葉とぞなるらむ
(自分に付いている葉たちを絶対に離さず守る木であるならば、葉の方で、どこまでも従って行きましょう。)
この四月三日の歌会を終えた夜、吉備真備は珍しく喜び勇んで、寝所に北方・園姫のことを訪ねた。真備が園姫の部屋を訪ねて行くと、園姫は丁度書物を読んでいた。園姫は、まだまだ書物の続きが読みたい風で、姿勢を正してその場に座り続け、真備のことを見ようともしなかった。真備は構わず、大きな声で、
「北方っ!」
と呼んだ。園姫の返事がないことにも、更に構わず、真備は園姫の背後から園姫の肩に手を掛けた。
「痛いではありませんか。お止め下さいませ。」
「喜べ、北方。今日歌会の後で、榎本家から、正式に藤姫を北方として申し受けたい、との申し出があったのだ。式も六月十日と決まった。」
「榎本家から、藤姫に縁談、でございますか?」
「そうだ。もう日取りも決まっているのだ。」
珍しく浮かれたようになっていた真備は、園姫の身体の中央を、優しげに回していった。園姫は言いようのない気味悪さを感じつつも、甘い思いに襲われ、次第に意識が朦朧としていった。そして、哀れな自身の長女・由利子のことを考えていた。
翌日、園姫の目が覚めた時には、夫・真備の姿は寝所にはなかった。園姫はすぐに、藤姫の部屋を訪ねていって言った。
「今日は、一緒に法隆寺に行きましょう。」
「本日でございますか?お母様。」
「そうですよ。」
「お母様。私は既に、縁談のある身でございます。」
「貴女がもうすぐ縁付かれるからこそ、今日一緒に法隆寺へ行きたいのです。」
真備は元々、由利子を出家させて、吉備家からは遠ざけ、他の兄弟にも出家後は、会わせない考えで、日常的に家族のことを戒めていた。しかし、園姫は、放っておけば嫁ぐ機会を自然に失う自分の娘の由利子のことが憐れでならず、夫の戒めを破る決意をしたのであった。園姫は、藤姫を伴い、牛車で法隆寺へ向かった。およそ半日をかけて、園姫と藤姫が法隆寺に着くと、藤姫は母・園姫に聞いた。
「お母様。なぜ私をこのお寺に連れてきて下さったのですか?」
「貴女にきちんと話しておくのが遅くなってしまったのは、申し訳ないけれど、実は貴女には、お姉様が一人いたのです。」
「私に、お姉様が?」
「そう。でも、お父様が、今上天皇が女帝なので、長女は今の世の中に綾かって、独身で一生を過ごす尼御前にしたい、とおっしゃったので…。」
園姫は、自身の娘・藤姫に真実を語っていなかった。
「まあ、そうでしたの。」
藤姫は、大きな寺の中を見回しながらそう答えたが、間もなく二人は一つの部屋に通された。園姫は、由利子の姿勢を正した美しい姿を見て満足したが、姉妹である故に、由利子と藤姫はよく似ていた。
「藤姫。貴女のお姉様の由利子ですよ。」
「お姉様。」
「由利子。貴女の妹の藤姫ですよ。」
「藤姫。」
「由利子。藤姫は今度、榎本家に嫁ぐことになりました。でも、姉の貴女が先に嫁げないのは、私には何とも歯がゆいのです。貴女方二人は入れ替わって、由利子が榎本英樹氏と今回結婚するのです。」
「お母様。私はもう三十一歳でございまず。藤姫の若さとは入れ替われないでしょう。」
「何を気弱なことを。女君は、化粧をしてしまえば、年齢などは分かりませんよ。妹が姉よりも先に結婚して良い筈がありません。ねっ、藤姫?由利子に代わって、今日からは貴女がこの寺に入るのです。そして、今日からは貴女が由利子です。また、良い縁談があったら、この母が貴女と誰かを入れ替えます。」
「お母様。」
「そして、由利子。貴女は、今日から藤姫になって、榎本英樹様の北方となるのです。明日の朝早く、私と一緒に、吉備家へ帰りましょう。」
「…。」
驚いて目を見張るしかない由利子と藤姫のことを尻目に、園姫はその夜、寺内で与えられた一室で、実に深く眠った。そして、翌日の早朝、さっさと由利子を連れて牛車で京都の吉備家へ急いだ。寺に一人残された藤姫は、急に心細くなった。
一方、北方・園姫が法隆寺へ行く、と言って外出したことに、吉備真備は違和感を覚えていた。帰って来たばかりの園姫に同行していた娘が、よもや由利子に入れ替わっておようとは、その時の真備にも分からなかった。
「只今戻りましてございます。」
呑気に挨拶する園姫に、
「無事で何より。」
と言っておきながら、真備は何げに、隣りにいる由利子のことを見た。この時点では当然、藤姫が法隆寺に置き去りになって心細い思いをしていることは知らなかった。しかし、この日真備は同時に、藤姫の振りをしている由利子に、
「藤姫。貴女とは後二月しか一緒にいられない。母君と一緒に、これからは、毎日この父と兄弟たちとに、琴を弾いてはくれまいか。」
と言った。
「お父様。嬉しゅうございます。おっしゃる通りに致します。」
「では、疲れているところを悪いが、今晩から早速弾いてくれ。」
「畏まりました。」
真備は早速、広い部屋に、泉、与智麻呂、書足、稲麻呂、真勝、と自身の子息らを全て集めた。真備と園姫の侍女たちも一堂に集められた。真備はまた、口を開いた。
「藤姫。最初にお母様と一緒に弾いてみてくれ。その次に、そなた一人で弾いてみよ。」
由利子は、言われた通りに、琴を弾き始めた。真備は、由利子が一人で弾く段階から、特に注意深く耳を澄ませた。もう少しよく聞きたい、と思った真備は、もう一曲所望したが、真備が二曲目に聞き惚れていると、園姫の侍女・春友の局が、真備にそっと近付いて来て耳打ちした。
「どうも、由利子様の弾き方に、とてもよく似てらっしゃる気が致します。」
「なに、由利子?由利子は、今法隆寺にいる筈ではないか。…。そうか。」
真備は、由利子が弾き終わったのを確認すると、由利子を呼んだ。
「藤姫。見事な演奏であった。我が娘ながら、実に天晴だ。こちらへ。」
京都に移すと、一一八五年に源頼朝が鎌倉幕府を開くまで、我が日本では最も歴史の長い平安時代の幕が開いた。平安遷都の頃より、既に藤原氏が朝廷では重く扱われていた。藤原の姓は、六四五年の大化の改新に功のあった中臣鎌足に最初に与えられ、次いで、鎌足の次男不比等が賜った姓であった。不比等は平安遷都以前から、次女を文武天皇の皇后に、三女を聖武天皇の皇后とし、皇室以外の女性が皇后になる機会を作っていたため、藤原氏の勢力は、長期間不動のものとなっていた。
摂政関白、太政大臣、左右大臣の役職を全て藤原氏の御曹司に奪われてしまうこのご時世に、大中少納言の位に甘んじながら、非常に高い学問を治めていた家柄が数件あった。榎本英樹氏、徳川龍之介氏、満田亀造氏の三氏であった。三氏は代々、優れた武官を輩出していたが、特に榎本氏は、高い武術を身に着けた家柄として、皇室の武官たちを指導する役職にあって、皇室からの信頼が厚かった。また、武装した地方豪族などをうまく従え、子弟に武術を指南させることによって、自身で身辺を固める術も所持していた。榎本英樹氏の父君には、三人のご夫人がおられ、北方とお二人のご側室も、それぞれ五人ずつ若君を設けておいでになった。このうち、北方の長子としてお生まれになったのが、英樹殿であった。英樹殿の父君には、全部で十五人の若君がおられたことになる。英樹殿には、十四人の弟君達がおいでであった。
七六九年四月三日、時の桓武天皇が歌会を主催されることになった。吉備真備の次女・藤姫殿は、七六四頃から既に、毎年皇室が主催する春の曲水の宴と秋の歌会に出席されていた。また、藤姫殿は、同じ七六四年頃から、五節の舞姫としても活躍されており、琴の名手である上に、まるで輝夜姫のようなお美しさであったため、多くの公達の憧れの的となっていた。七六九年四月に催された歌会には、榎本英樹氏も、父君の強い薦めで出席されていた。榎本英樹氏は十八歳、藤姫殿は十五歳であった。藤姫殿が、多くの公達の中から、榎本英樹氏をご自身の伴侶としてお選びになったのは、桓武天皇が主催された歌会で、英樹殿が次のような和歌をお詠みになったらであった。
いたずらに
時を過ごしし
木の葉にも
根付きたる木の
ありしものかは
(ただ意味もなく浮いているような木の葉にも、付いていた木はあるものです。私はあなたにとって、一生安心して付いていられる木でありたい、と考えています。)
この歌に対し、藤姫がこう詠んでいた。
木の葉をぞ
離さず守る
木であれば
常に従う
葉とぞなるらむ
(自分に付いている葉たちを絶対に離さず守る木であるならば、葉の方で、どこまでも従って行きましょう。)
この四月三日の歌会を終えた夜、吉備真備は珍しく喜び勇んで、寝所に北方・園姫のことを訪ねた。真備が園姫の部屋を訪ねて行くと、園姫は丁度書物を読んでいた。園姫は、まだまだ書物の続きが読みたい風で、姿勢を正してその場に座り続け、真備のことを見ようともしなかった。真備は構わず、大きな声で、
「北方っ!」
と呼んだ。園姫の返事がないことにも、更に構わず、真備は園姫の背後から園姫の肩に手を掛けた。
「痛いではありませんか。お止め下さいませ。」
「喜べ、北方。今日歌会の後で、榎本家から、正式に藤姫を北方として申し受けたい、との申し出があったのだ。式も六月十日と決まった。」
「榎本家から、藤姫に縁談、でございますか?」
「そうだ。もう日取りも決まっているのだ。」
珍しく浮かれたようになっていた真備は、園姫の身体の中央を、優しげに回していった。園姫は言いようのない気味悪さを感じつつも、甘い思いに襲われ、次第に意識が朦朧としていった。そして、哀れな自身の長女・由利子のことを考えていた。
翌日、園姫の目が覚めた時には、夫・真備の姿は寝所にはなかった。園姫はすぐに、藤姫の部屋を訪ねていって言った。
「今日は、一緒に法隆寺に行きましょう。」
「本日でございますか?お母様。」
「そうですよ。」
「お母様。私は既に、縁談のある身でございます。」
「貴女がもうすぐ縁付かれるからこそ、今日一緒に法隆寺へ行きたいのです。」
真備は元々、由利子を出家させて、吉備家からは遠ざけ、他の兄弟にも出家後は、会わせない考えで、日常的に家族のことを戒めていた。しかし、園姫は、放っておけば嫁ぐ機会を自然に失う自分の娘の由利子のことが憐れでならず、夫の戒めを破る決意をしたのであった。園姫は、藤姫を伴い、牛車で法隆寺へ向かった。およそ半日をかけて、園姫と藤姫が法隆寺に着くと、藤姫は母・園姫に聞いた。
「お母様。なぜ私をこのお寺に連れてきて下さったのですか?」
「貴女にきちんと話しておくのが遅くなってしまったのは、申し訳ないけれど、実は貴女には、お姉様が一人いたのです。」
「私に、お姉様が?」
「そう。でも、お父様が、今上天皇が女帝なので、長女は今の世の中に綾かって、独身で一生を過ごす尼御前にしたい、とおっしゃったので…。」
園姫は、自身の娘・藤姫に真実を語っていなかった。
「まあ、そうでしたの。」
藤姫は、大きな寺の中を見回しながらそう答えたが、間もなく二人は一つの部屋に通された。園姫は、由利子の姿勢を正した美しい姿を見て満足したが、姉妹である故に、由利子と藤姫はよく似ていた。
「藤姫。貴女のお姉様の由利子ですよ。」
「お姉様。」
「由利子。貴女の妹の藤姫ですよ。」
「藤姫。」
「由利子。藤姫は今度、榎本家に嫁ぐことになりました。でも、姉の貴女が先に嫁げないのは、私には何とも歯がゆいのです。貴女方二人は入れ替わって、由利子が榎本英樹氏と今回結婚するのです。」
「お母様。私はもう三十一歳でございまず。藤姫の若さとは入れ替われないでしょう。」
「何を気弱なことを。女君は、化粧をしてしまえば、年齢などは分かりませんよ。妹が姉よりも先に結婚して良い筈がありません。ねっ、藤姫?由利子に代わって、今日からは貴女がこの寺に入るのです。そして、今日からは貴女が由利子です。また、良い縁談があったら、この母が貴女と誰かを入れ替えます。」
「お母様。」
「そして、由利子。貴女は、今日から藤姫になって、榎本英樹様の北方となるのです。明日の朝早く、私と一緒に、吉備家へ帰りましょう。」
「…。」
驚いて目を見張るしかない由利子と藤姫のことを尻目に、園姫はその夜、寺内で与えられた一室で、実に深く眠った。そして、翌日の早朝、さっさと由利子を連れて牛車で京都の吉備家へ急いだ。寺に一人残された藤姫は、急に心細くなった。
一方、北方・園姫が法隆寺へ行く、と言って外出したことに、吉備真備は違和感を覚えていた。帰って来たばかりの園姫に同行していた娘が、よもや由利子に入れ替わっておようとは、その時の真備にも分からなかった。
「只今戻りましてございます。」
呑気に挨拶する園姫に、
「無事で何より。」
と言っておきながら、真備は何げに、隣りにいる由利子のことを見た。この時点では当然、藤姫が法隆寺に置き去りになって心細い思いをしていることは知らなかった。しかし、この日真備は同時に、藤姫の振りをしている由利子に、
「藤姫。貴女とは後二月しか一緒にいられない。母君と一緒に、これからは、毎日この父と兄弟たちとに、琴を弾いてはくれまいか。」
と言った。
「お父様。嬉しゅうございます。おっしゃる通りに致します。」
「では、疲れているところを悪いが、今晩から早速弾いてくれ。」
「畏まりました。」
真備は早速、広い部屋に、泉、与智麻呂、書足、稲麻呂、真勝、と自身の子息らを全て集めた。真備と園姫の侍女たちも一堂に集められた。真備はまた、口を開いた。
「藤姫。最初にお母様と一緒に弾いてみてくれ。その次に、そなた一人で弾いてみよ。」
由利子は、言われた通りに、琴を弾き始めた。真備は、由利子が一人で弾く段階から、特に注意深く耳を澄ませた。もう少しよく聞きたい、と思った真備は、もう一曲所望したが、真備が二曲目に聞き惚れていると、園姫の侍女・春友の局が、真備にそっと近付いて来て耳打ちした。
「どうも、由利子様の弾き方に、とてもよく似てらっしゃる気が致します。」
「なに、由利子?由利子は、今法隆寺にいる筈ではないか。…。そうか。」
真備は、由利子が弾き終わったのを確認すると、由利子を呼んだ。
「藤姫。見事な演奏であった。我が娘ながら、実に天晴だ。こちらへ。」