榎本氏
 「春友様。いかがなされたのでございますか?」
 「鶴竹。着る物も布団も持っていかれてしまいました。今、何もできないのです。それに、何だか酷く吐き気がして、具合が悪いのです。」
 「少しお待ちになって下さいませ。」
 そう言って、鶴竹の君は、どこからか、白装束を一枚だけ持って来た。
 「春友様。まずは、これを身に付けて下さいませ。」
 春友の局が、言われた通りに身に付けると、鶴竹の君は、またすかさずに聞いた。
 「着る物や布団を、どなたに取られたのですか?」
 「恐らく、北方様です。」
 そう言いながら、甘い眠りの中にいた春友の局も、園姫が実際に十二単や布団を持ち去る場面を自分の目で見た訳ではなかった。鶴竹の君は、立て続けに春友の局に聞いた。
 「なぜ、着る物や布団を取られることになったのですか?」
 「私は、殿のお言いつけで、殿と昨夜、床を共にしました。北方様には、きっとそれがお気に触ったのです。」
 言いながら、春友の局は、激しく吐き、懸命に口を塞ぎ始めた。鶴竹の君は、春友の局の背中を摩った。
 「春友様。大丈夫でございますか?」
 鶴竹の君は、春友の局の背中を摩りながらはっとした。
 「春友様は、つい先ほども、具合が悪い、とおっしゃっておいでした。…まさか…。」
 子供を身籠るなど、今年三十七歳になる春友の局にとっては、全く初めての経験であった。今までの三十七年間の人生の中で、春友の局は、大勢の侍女たちを従え、仕事一筋であった。苦しい吐き気に襲われ続ける中で、春友の局は、何とか一言、鶴竹の君に言った。 
 「鶴竹。今日は、もうこの通り仕事はできません。北方様に、宿下がりをお願いに行きたいので、悪いけれど、私のことを支えて、北方様のお部屋へ一緒に行ってくれませんか?」
 「春友様。北方様は、殿のお部屋で今、朝食を召上っておられるそうでございます。私が、春友様のことを、お二人にご報告申し上げて参りますゆえ、春友様は、どうかここでお待ち下さいませ。」
 「分かりました。」
 鶴竹の君は、急いで真備と園姫のいる部屋へ向かい、取り次ぎを願った。
 「北方様。鶴竹殿が参っておりますが…。」
 「春友の侍女の鶴竹ですか?」
 「はい。」
 「通しなさい。」
 「はい。」
 部屋に通されると、鶴竹は言った。
 「春友様が、只今お目覚めになり、本日は体調が優れぬゆえ、宿下がりを願いたい、とのことでございます。」
 「おやっ?やっと、こんな時間になって起きたかと思ったら、宿下がりですか?」
 「はい。吐き気が酷く、大層つらそうなご様子にございました。」
 横から真備が口を挟んだ。
 「具合が悪いなら、宿下がりさせればよいではないか。」
 「殿。昨晩の殿とのご様子から察するに、春友は身籠ったやもしれませぬ。」
 「何を言う?私と春友はまだ一回しか床を共にしておらぬぞ。たった一回で女君は、身籠るものなのか?」
 「たった一回でも、身籠る者は身籠りまする。」
 「私と貴女でさえ、一回で子ができたことなど、なかったではないか。」
 「それも、その人とその時の相性によるのでございます。私のお見立てでは、殿と春友は、かなり相性がお宜しいご様子。兎に角春友を、くすしに見せましょう。」
 真備は、大急ぎでくすしを呼ばせたが、今日はくすしがてんてこ舞で、吉備邸に足を運べるのが大分遅くなる、とのことであった。
 
 その日の執務を終えた真備は、就寝に入ろうとして、春友の局の部屋を訪れた。
 「もう夜となった。貴女と二人だけの時間を楽しむとしよう。」
真備は、局の部屋に入るなり言った。
 「早く着ている物を取りなさい。」
 「殿。どうか、お待ち下さいませ。」
 「何故だ?」
 「園姫様のお部屋へ行って下さいませ。」
 「あれのことはもう金輪際、私の北方とは思わぬ。早く着ている物を取りなさい。」
 「それはできませぬ。殿。園姫様は我が主にございます。園姫様のお悲しみを見たくはありませぬ。」
 「愛しいわが娘・藤姫を、由利子と入れ替えようとしたのだ。これ以上、北方として尊べるか?」

 一方、園姫は自分の部屋で終日死んだように過ごしていたが、夜が近づく時間になると、通常なら必ず真備が自分の部屋を訪れる時間と認識し、侍女の一人に訪ねた。
 「殿は今、どうしていらっしゃいますか?」
 「殿は本日、春友のお局様のお部屋で過ごされるとのことでございます。」
 「なんですと?では、貴女も私と一緒にいらっしゃい。」
 園姫は、急いで春友の局の部屋を訪ねた。

 「殿。園姫様がなされたことは、もともと殿が同じ園姫様のご息女なのに、由利子様をお寺に追いやり、藤姫様には良い縁談を用意される、という差別をなさったことから起こったことではありませんか?」
 「何を言う。玄昉の娘と我が息女を一緒に考えらえるか。」
 真備がそう言い終えるか終わらないうちに、園姫が侍女を伴って、春友の局の部屋へ入ってきて言った。
 「殿。どうか、私の侍女にお手を出さないで下さいませ。」
 「母親でありながら、由利子は単瞼で、藤姫が二重瞼であることが分からなかったくせに、大きな口を叩くでない。」
 「…。」
 「殿。北方様に昨日のようなことをされては、孝謙天皇がお嘆きになります。」
 「孝謙天皇は、今道鏡にご執心で、我が事など忘れておいでだ。」
 「春友。二度も私に同じことを言わせるでない。着ている物を取りなさい。園姫は玄昉の娘と私の娘と取り換えたのだ。どうして許せよう。私が味わったのと同じ苦痛を知って、少しは我が痛みを思い知るがよいのだ。兎に角、宇治に由利子の入る新しい寺が完成するまでは、園姫には毎晩、ただ私と貴女の様子を見て貰うとしよう。宇治の寺が建つまでに、貴女が身籠ったとしても、園姫に文句を言う資格などあるものか。春友。我が言葉に従うのだ。」
 園姫の目の前で、春友の局は、真備の願いを叶えた。園姫の目の前に、生き地獄のような光景が広がった。真備が、園姫の傷口を更に大きくしようとするかのように言った。
 「春友は実に美しい。どうして、もっと早く気付かなかったのであろう?こんな素敵な女君が、自分のすぐ近くにいたことに。
 園姫は、今日の昼頃には、榎本殿が、藤姫を助け出して、今頃はご自身の屋敷で、私が春友を今楽しんでいるのと同じように、こうして楽しんでおられよう。」
しかし、園姫はしっかりと目を見開いて、真備が春友の局の身体の中央部分を回しながら、更にその回していく手に力を込める光景もしっかりと目に入れた。真備は、園姫の傷口をどこまでも押し広げるかのように、手を止めずに園姫をしっかりと見て、また言った。
 「貴女はそこで一体何をしているのだ?自分の部屋に戻って休みなさい。私は、この春友とやることがある。大事な話もあるしな。」
 「殿。春友を弄ぶのは、お止め下さいませ。」
 「私は、春友を弄んでなどおらぬ。由利子を入れる新しい寺ができるまで、春友を我が側に置くと申したではないか。私は、真剣な気持ちで春友を愛おしんでいる。」
 すると急にそこで、春友の局は、口を塞いだ。春友の局の十二単の上半身部分が、全て腰から下がり、園姫が最も見たくない物が、萎んでいった。まだ若い春友の局には、似合わない光景であった。
 「春友っ!どうした?」
 真備は、春友の局の身体の中央部分から手を話、春友の局の背中を摩ろうとしたが、園姫が遮って言った。
 「殿。春友のために、たった今、くすしが到着したとのことでございます。」
 くすしの診断により、春友の局の懐妊が確認できた。園姫がまた、口を挟んだ。
 「殿。暫くは、春友に触れられませぬなあ。」
しかし真備は、春友の身体を愛おしんでいたのと同じ場所を動くことなく、園姫の隣に侍っていた、小梅の君、という侍女を、自分の方へ引き寄せた。
 「暫く、春友の代わりになるのだ。小娘は、我が意に従うべし。」
小梅の君は、園姫が声を上げる間もなく、春友の局と同じような醜態を晒す姿にさせられた。まだ二十七歳であった小梅の君は、七十四歳の老人の意に従わざるを得ない屈辱感を舐めさせられた。
小梅の君も、その夜のうちに懐妊した。翌日の夜は、亀松の君、その翌日は梅鶴の君、その翌日は亀琴の君、というように、真備は園姫の侍女たちに、毎晩のように子を与え続けた。そして、自分の侍女にまで手を出したが、それも足りなくなると、ついには、唐の国から女君を連れてこようと言い出したが、異国から女君を連れて来るには、船で一年以上はかかるのが、当時の航海事情であったため、唐の女人たちが到着するまでは、自身の生まれ故郷であった備中の国から、下女たちを呼び寄せようとした。園姫はそれを聞きつけ、懸命に真備に噛みついた。
「殿は、そんなに私のことを傷つけたいのですか?でも、私ではなく、若い女君たちを、老人の餌食にして、傷つけていることがお分かりになりませんか?」
しかし、もはや真備にとっては、北方の言うことなど馬事東風であった。毎日下女たちを、吉備邸に召し入れていた。そうしているうちに、真備好みの唐の女人を乗せた船が難破したとの知らせが入り、真備は気落ちして途方にくれていたが、もう暫くした頃、七六九年五月五日になると、真備が、娘・由利子を入れようとして宇治に建立させていた寺が完成した。真備は完成した宇治の寺を、梅園寺、と名付けた。そして真備は、園姫と由利子を、牛車を与えずに、梅園寺まで歩いて行かせ、自分は再び毎日のように、侍女たちを自身の寝所に侍らせた。園姫は、梅園寺まで由利子のことを送り届けた後、吉備邸へ帰ってくることにはなっていた。
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