榎本氏
園姫が足を血に染めて宇治から帰ってくる前に、藤原永手が、自身の屋敷に吉備真備を呼んだ。今年五十五歳になる永手は、最近北方を無くし、三十路になる若い北方を、藤原氏南家から娶っていた。しかし、自分の屋敷に真備を招き入れた永手は、面白い趣向を凝らしていた。真備が招き入れられたのは、永手の寝所であった。永手は、真備が園姫にしたように、寝所の高い位置から、真備を見下ろすような体勢になった。しかも、目の前には、十二単の上半身部分を腰から下げて、女君の色の白さをむき出しにされて恥ずかしそうにしている、若い北方の姿があった。
「これこれ。身内の中で見られるだけで、そう恥じらうでない。」
永手は、優しい言葉を北方にかけて楽しんでいたが、真備が部屋に入ってくるとすぐに言った。
「我が姉から、貴方の所業を伝え聞いて、私も真似したくなりましてね。」
永手は、北方の身体の中央部分に自分の手を這わせていた。
「今姉は、痛い足を引きづって、宇治の寺に向かっているそうですね。でも、貴方は、姉以外の女君たちで毎晩こうして楽しんでいる、と聞いています。姉も女君であることを、どうか忘れないでやってはくれませんか?他の殿方はどうか分からないが、私だったら、皆の前で自分の好いている女君と遊ぶとしてら、私にはこの北方しかおりませぬ。」
永手の愛おしむ北方の身体の中央部分の白さが、真備にはこの上もなく美しく光って見えた。
(園子も、本当はあんな風に美しい女君だった。だが、園子は人妻でありながら玄昉と関係し、由利子と藤姫を入れ替えようとしたのだ。どうして、許せるであろうか?そして、このことは、死んでも永手殿には言えぬ。
永手は、自分の姉が、僧・玄昉とかって密通したことを知らないのだ。どうして、この私に説教などできるだろうか?)
真備には、一生掛っても、告げることのできない事実を自分が抱えていることを、永手が知らないことが、後々まで自身の足かせになっていることに困惑すらする余裕はなかった。
「これ以上、派手に女君と遊ぶと、帝のお耳にも入りましょうぞ。」
「永手殿も、残酷なことを申されますなあ。私が、園姫のことを可愛がったことがない、とでもおっしゃりたいご様子ですな。しかし、私ももう翁と呼ばれる年代になり、若い女君と遊ぶのが、悠一の生甲斐となってきています。どうか、年寄りには、お手柔らかに願います。」
「しかし、ご息女の藤姫殿の婚儀を、来る六月十日に控えておられるのなら、せめて、その後でも宜しいのではありませんか?」
真備は、永手の言うことなど気にする様子もなく、毎晩侍女を寝室に侍らせ続けた。一回目の唐からの船は、遭難したが、二回目の唐からの船には、十人ほど、唐の遊女が乗っていた。真備は十人一遍に夜の寝所に侍らせ、
「この夜は、お前たちのうちの誰を抱こうか?」
などと言った。既に七十四歳にもなっていた真備は、人の心の痛みなどにはお構いなかった。唐の女人たちのことも、毎晩好きなだけ、その身体の中央部分に自分の手を這わせ、女人たちの白さ、柔らかさ、固さを楽しんだ。しかし、真備の楽しみとは別に、女人たちは、嫉妬の苦しみ、真備が指に力を入れる時の痛さ、などに毎日必死で耐えていた。藤姫の婚儀の直前まで、真備の寝室には唐の国の女人たちの悲鳴が響き続けていた。園姫は、旅先で真備のことを諌めることもできず、六月に入る直前に、やっと宇治から吉備邸に戻った。園姫は、藤姫の婚儀までには、足の手当を終わらせる必要があった。自分の足の手当をしながら、園姫は久しぶりに見る吉備邸が、随分汚れてきていることに気が付き、侍女を呼んで確かめた。
「唐の女君たちの身体が少し傷ついたのでございます。」
園姫には、瞬時に真備が女人たちに何をしたかが分かった。
「殿は、私の留守の間もずっと、侍女を侍らせたのですね?」
「…。」
侍女たちには、園姫が哀れでならなかった。
榎本家へ嫁がれてから三年後、藤姫殿は女児を出産され、その女児が一ノ君と呼ばれるようになった。藤姫の母君・園姫は、藤姫の初めての出産に付き添い、最も甲斐甲斐しく藤姫のために動いていた。
「藤姫。貴女もついに母になるのですね。」
「苦しい出産だったのに、何だか不思議な気持ちです。この子を抱いたら、とても幸せな気持ちになれました。」
「初めての子を抱く時は、皆同じ気持ちですよ。私も、一番最初は女の子でした。でもその子は、可愛そうに、貴女の姉でありながら、貴女と同じように、殿方に嫁ぐことを許されなかったのですよ。」
「お姉さまにお会いしたいです。」
「それは、難しいでしょう。でも、貴女は、姉の分まで幸せになるのですよ。」
「はい、お母様。」
由利子と泉が、玄昉の子であることは、吉備真備と北方だけの秘密とされていた。当然、藤姫は自身の姉が、父・真備の実の娘だと信じて疑っていない。
更に三年後、藤姫殿はまた懐妊され、二ノ君をお産みになった。英樹氏と藤姫殿の間に二ノ君が誕生されたのは、七七五年であったが、同年、藤姫の父君・吉備真備は八十歳で他界された。この時、藤姫殿のご兄弟方の、玄昉と園姫との間にできた泉殿も含めて、他に、与智麻呂殿、書足殿、稲麻呂殿、真勝殿の五人は、一番若い真勝殿でも既に十七歳となっており、皆朝廷の重要な役職に就いておいでになった。真備殿は、藤姫殿に男子ができないのを、お嘆きのご様子であった。真備殿が亡くなられた三年後、藤姫は再び女児の三ノ君を出産され、更に三年後もまた女児をお生みになり、今度は四ノ君であった。藤姫殿は、ここで二十七歳となられた。英樹氏はついに三十歳であった。また、この年は、桓武天皇が四十四歳で天皇に正式に即位された年でもあった。七八一年である。英樹氏も、藤姫殿が女児しか出産されないのを、大層嘆かれた。藤姫殿が嫁がれたと同時に七六九年には、藤原浜成氏の息女・結衣姫を北方に迎えていた親友の徳川龍之介氏には、七八一年になると、既に三人も男子が設けられていた。七八四年、藤姫殿はもう一人姫を設け、五ノ君と名付けられた。その又三年後、諦めかけていた英樹氏の下に、吉報が齎された。ついに藤姫殿が、男子を出産されたのであった。英樹氏と藤姫殿のお二人にとっては、六人目のお子であった。この太郎君がお生まれになると、一番上の一ノ君も、十五歳になられたので、英樹氏は年齢等の条件をお考えになり、一先ず地方豪族へ嫁がせることにされた。
藤姫殿が太郎君をお生みになると、桓武天皇は、
「吉備真備殿のご息女が、男子を出産された。」
と仰せになって、お喜びが、ひとかたではなかった。
藤姫の母・園姫は藤姫がまだ産気づく前から、榎本家へ来ていた。藤姫の出産に立ち会い、真っ先に太郎君を受け取り、桓武天皇にお渡しになったのも、園姫であった。桓武天皇に太郎君を渡すと、園姫は藤姫に言った。
「藤姫。貴女もついにやりましたね。」
「太郎を、できればお父様にも抱いて頂きたかった。六人目でやっと男君を授かったのですもの。でも、お母様は、お二人目から、男君だったのですよね?お母様には、叶いませんわ。」
園姫は、年齢に似合わぬ燥ぎようであった。
太郎君ご誕生の日、帝自ら榎本家へご足労なさり、若君があまりにも利発そうで、気品があるのをご覧になった。当時、近江国には、最澄という一流の高僧がおいでになった。桓武天皇は、太郎君に、当代随一の学問を身に付けさせたい、とお考えになり、太郎君が五歳になったら、最澄を榎本家へ招き入れたい、と思案されるようになった。また、当時東北には、地方豪族の中に、一流の剣の使い手がいたため、桓武天皇は太郎君が五歳になったら、この者も榎本家へ招き入れて、太郎君の教育に当たらせたいと、お考えであった。そしてほかにも、桓武天皇は、太郎君に青海波が最高に上手に舞えるようになってもらいたかった。一流の青海波の師匠も、榎本家へ招き入れるお考えであった。
「太郎君が、父君を凌ぐ武官となれるよう、余も力を尽くそう。貴重な榎本氏を代々守っていかねばならぬ。」
榎本家を訪問された桓武天皇はこの日、このように仰せられたのであった。
「これこれ。身内の中で見られるだけで、そう恥じらうでない。」
永手は、優しい言葉を北方にかけて楽しんでいたが、真備が部屋に入ってくるとすぐに言った。
「我が姉から、貴方の所業を伝え聞いて、私も真似したくなりましてね。」
永手は、北方の身体の中央部分に自分の手を這わせていた。
「今姉は、痛い足を引きづって、宇治の寺に向かっているそうですね。でも、貴方は、姉以外の女君たちで毎晩こうして楽しんでいる、と聞いています。姉も女君であることを、どうか忘れないでやってはくれませんか?他の殿方はどうか分からないが、私だったら、皆の前で自分の好いている女君と遊ぶとしてら、私にはこの北方しかおりませぬ。」
永手の愛おしむ北方の身体の中央部分の白さが、真備にはこの上もなく美しく光って見えた。
(園子も、本当はあんな風に美しい女君だった。だが、園子は人妻でありながら玄昉と関係し、由利子と藤姫を入れ替えようとしたのだ。どうして、許せるであろうか?そして、このことは、死んでも永手殿には言えぬ。
永手は、自分の姉が、僧・玄昉とかって密通したことを知らないのだ。どうして、この私に説教などできるだろうか?)
真備には、一生掛っても、告げることのできない事実を自分が抱えていることを、永手が知らないことが、後々まで自身の足かせになっていることに困惑すらする余裕はなかった。
「これ以上、派手に女君と遊ぶと、帝のお耳にも入りましょうぞ。」
「永手殿も、残酷なことを申されますなあ。私が、園姫のことを可愛がったことがない、とでもおっしゃりたいご様子ですな。しかし、私ももう翁と呼ばれる年代になり、若い女君と遊ぶのが、悠一の生甲斐となってきています。どうか、年寄りには、お手柔らかに願います。」
「しかし、ご息女の藤姫殿の婚儀を、来る六月十日に控えておられるのなら、せめて、その後でも宜しいのではありませんか?」
真備は、永手の言うことなど気にする様子もなく、毎晩侍女を寝室に侍らせ続けた。一回目の唐からの船は、遭難したが、二回目の唐からの船には、十人ほど、唐の遊女が乗っていた。真備は十人一遍に夜の寝所に侍らせ、
「この夜は、お前たちのうちの誰を抱こうか?」
などと言った。既に七十四歳にもなっていた真備は、人の心の痛みなどにはお構いなかった。唐の女人たちのことも、毎晩好きなだけ、その身体の中央部分に自分の手を這わせ、女人たちの白さ、柔らかさ、固さを楽しんだ。しかし、真備の楽しみとは別に、女人たちは、嫉妬の苦しみ、真備が指に力を入れる時の痛さ、などに毎日必死で耐えていた。藤姫の婚儀の直前まで、真備の寝室には唐の国の女人たちの悲鳴が響き続けていた。園姫は、旅先で真備のことを諌めることもできず、六月に入る直前に、やっと宇治から吉備邸に戻った。園姫は、藤姫の婚儀までには、足の手当を終わらせる必要があった。自分の足の手当をしながら、園姫は久しぶりに見る吉備邸が、随分汚れてきていることに気が付き、侍女を呼んで確かめた。
「唐の女君たちの身体が少し傷ついたのでございます。」
園姫には、瞬時に真備が女人たちに何をしたかが分かった。
「殿は、私の留守の間もずっと、侍女を侍らせたのですね?」
「…。」
侍女たちには、園姫が哀れでならなかった。
榎本家へ嫁がれてから三年後、藤姫殿は女児を出産され、その女児が一ノ君と呼ばれるようになった。藤姫の母君・園姫は、藤姫の初めての出産に付き添い、最も甲斐甲斐しく藤姫のために動いていた。
「藤姫。貴女もついに母になるのですね。」
「苦しい出産だったのに、何だか不思議な気持ちです。この子を抱いたら、とても幸せな気持ちになれました。」
「初めての子を抱く時は、皆同じ気持ちですよ。私も、一番最初は女の子でした。でもその子は、可愛そうに、貴女の姉でありながら、貴女と同じように、殿方に嫁ぐことを許されなかったのですよ。」
「お姉さまにお会いしたいです。」
「それは、難しいでしょう。でも、貴女は、姉の分まで幸せになるのですよ。」
「はい、お母様。」
由利子と泉が、玄昉の子であることは、吉備真備と北方だけの秘密とされていた。当然、藤姫は自身の姉が、父・真備の実の娘だと信じて疑っていない。
更に三年後、藤姫殿はまた懐妊され、二ノ君をお産みになった。英樹氏と藤姫殿の間に二ノ君が誕生されたのは、七七五年であったが、同年、藤姫の父君・吉備真備は八十歳で他界された。この時、藤姫殿のご兄弟方の、玄昉と園姫との間にできた泉殿も含めて、他に、与智麻呂殿、書足殿、稲麻呂殿、真勝殿の五人は、一番若い真勝殿でも既に十七歳となっており、皆朝廷の重要な役職に就いておいでになった。真備殿は、藤姫殿に男子ができないのを、お嘆きのご様子であった。真備殿が亡くなられた三年後、藤姫は再び女児の三ノ君を出産され、更に三年後もまた女児をお生みになり、今度は四ノ君であった。藤姫殿は、ここで二十七歳となられた。英樹氏はついに三十歳であった。また、この年は、桓武天皇が四十四歳で天皇に正式に即位された年でもあった。七八一年である。英樹氏も、藤姫殿が女児しか出産されないのを、大層嘆かれた。藤姫殿が嫁がれたと同時に七六九年には、藤原浜成氏の息女・結衣姫を北方に迎えていた親友の徳川龍之介氏には、七八一年になると、既に三人も男子が設けられていた。七八四年、藤姫殿はもう一人姫を設け、五ノ君と名付けられた。その又三年後、諦めかけていた英樹氏の下に、吉報が齎された。ついに藤姫殿が、男子を出産されたのであった。英樹氏と藤姫殿のお二人にとっては、六人目のお子であった。この太郎君がお生まれになると、一番上の一ノ君も、十五歳になられたので、英樹氏は年齢等の条件をお考えになり、一先ず地方豪族へ嫁がせることにされた。
藤姫殿が太郎君をお生みになると、桓武天皇は、
「吉備真備殿のご息女が、男子を出産された。」
と仰せになって、お喜びが、ひとかたではなかった。
藤姫の母・園姫は藤姫がまだ産気づく前から、榎本家へ来ていた。藤姫の出産に立ち会い、真っ先に太郎君を受け取り、桓武天皇にお渡しになったのも、園姫であった。桓武天皇に太郎君を渡すと、園姫は藤姫に言った。
「藤姫。貴女もついにやりましたね。」
「太郎を、できればお父様にも抱いて頂きたかった。六人目でやっと男君を授かったのですもの。でも、お母様は、お二人目から、男君だったのですよね?お母様には、叶いませんわ。」
園姫は、年齢に似合わぬ燥ぎようであった。
太郎君ご誕生の日、帝自ら榎本家へご足労なさり、若君があまりにも利発そうで、気品があるのをご覧になった。当時、近江国には、最澄という一流の高僧がおいでになった。桓武天皇は、太郎君に、当代随一の学問を身に付けさせたい、とお考えになり、太郎君が五歳になったら、最澄を榎本家へ招き入れたい、と思案されるようになった。また、当時東北には、地方豪族の中に、一流の剣の使い手がいたため、桓武天皇は太郎君が五歳になったら、この者も榎本家へ招き入れて、太郎君の教育に当たらせたいと、お考えであった。そしてほかにも、桓武天皇は、太郎君に青海波が最高に上手に舞えるようになってもらいたかった。一流の青海波の師匠も、榎本家へ招き入れるお考えであった。
「太郎君が、父君を凌ぐ武官となれるよう、余も力を尽くそう。貴重な榎本氏を代々守っていかねばならぬ。」
榎本家を訪問された桓武天皇はこの日、このように仰せられたのであった。