榎本氏
時に、一ノ君など、女君たちには、琴の腕を磨いてから縁付かせるようにとの、桓武天皇のご指示が、既に大分以前から榎本家へはされており、無き真備殿の北方・園姫が、五人の姫君の養育に当たり始めていた。吉備真備殿が七七五年に八十歳で逝去された時、北方・園姫はまだ七十三歳であった。五人の姫君たちにとって、園姫は祖母にあたる。五人の姫君は、六歳になると、琴のみではなく、和歌など、当時中流階級以上の女君に必要な全養育を、園姫から受けることになった。
六歳の頃から、園姫の養育をお受けになった一ノ君は、仁姫と名付けられており、父君の榎本英樹氏は、十五歳になった仁姫を、地方豪族に嫁がせたい、とお考えでありながら、なかなか姫のお相手を見い出せずにいた。しかし、京職に勤務していた若い武官の一人が、ある夜、突然榎本家の寝殿に迷い込んできた。律令の知識に優れ、剣の腕前もあったが、この日は何故か、仲間と共に遅くまで武術の稽古に励んでいて、暗い中で道に迷ってしまった。この人は、橘嶋田麻呂、という御名であった。迷い込んだ寝殿の中で、美しい琴の音がしたので、嶋田麻呂殿はこんな歌を詠んだ。
暗がりに
懐かしき音
響くとは
道の分からぬ
音の主かは
(暗がりに琴の音が響いても、奏でていらっしゃる方が分からないので、道を前に進んで行くことができません。)
琴を奏でていたのは、勿論仁姫であった。仁姫はすぐに歌を返された。
迷い路は
音の主にぞ
聞くべきを
すぐ近くにぞ
侍りたる者
(進む道がお分かりにならないのなら、琴を奏でている者にお聞きになればよろしゅうございます。こんなに近くにおりますものを。)
嶋田麻呂殿は、ふと気が付いて前方を見ると、女房装束の天女のような女君が、真直ぐに嶋田麻呂殿を見下ろしていた。仁姫は、嶋田麻呂殿をご自身の部屋へ招き入れた。母君の藤姫に似て、女君の美しさに恵まれていた仁姫は、立ち待ち嶋田麻呂殿を虜にしてしまった。そのままお二人は、寝所を共にされた。夜通し仁姫は、嶋田麻呂殿に、お仕事のことをお聞きになった。仁姫は、嶋田麻呂殿が青海波も舞うことができることをお知りになった。
「今後は毎日、お仕事が終わったら、私の家においで下さい。私の琴の音に合わせて、青海波を舞って頂きたいのです。」
仁姫は言われた。その翌日から毎日、嶋田麻呂殿は、京職のお仕事が終わると、仁姫のお部屋に通われた。
嶋田麻呂殿が、仁姫のお部屋に通われるようになってから半年が過ぎた頃、一人の考え深そうな老人が、榎本英樹殿をお訪ねになった。
「殿。橘諸兄と申されるご老人が、殿とのご面会をお望みにございます。」
武官の取り次ぎを受けた英樹殿は、ハッとした。
「何っ!橘殿か。すぐに客間へ通せ。」
七〇八年、元明女帝の即位式で活躍した橘三千代氏は、女性とは言っても、当時あまりにも有名であったが、この三千代氏の働きに対し、一族が橘の姓を賜っていた。最も最近では、橘氏は京職にお務めの子弟が多いとのことであった。英樹を訪ねてきた橘諸兄氏は、助麻呂殿の祖父君にあたられる。
客間で待っていた一氏は、英樹氏の姿を認めると、淡々と話し始めた。
「これは、榎本殿。初めてお目にかかります。」
「世間に名高い橘氏のご足労をわざわざ頂き、恐縮しております。」
「榎本殿が恐縮されるほどのことでもありますまい。」
「ところで、橘氏ほどの方が、我が家へお越しになったご用向きは?」
「おやっ?そのご様子では、何もご存じないのですかな?」
「これはお恥ずかしい。私どもに、何か手落ちでも、ありまいたかな?」
「いえ。これは手落ちというほどのものでもありますまい。」
「ご息女の仁姫様のことじゃ。」
「仁姫が、何か失礼なことでも致しましたかな?」
「いえ。失礼なことをしたのは、むしろ、わしの孫・嶋田麻呂の方かもしれませんな。」
「と、おっしゃいますと?」
「おやおや。そのご様子では、失礼ながら、何もご存じないと見えますな。」
「一体、どうなさったのです?」
「実は、大変申し訳ないんだが、半年ほど前に、孫の嶋田麻呂が、こちらの寝殿に迷いこみましたのじゃ。」
「………。」
「その折、たまたま仁姫様とお会いになり、二人とも、えらく気持ちが合われ、仁姫様は、既にご懐妊の由にございまするぞ。」
「何ですと?仁姫が懐妊っ!」
「左様じゃ。しかし、今日お話しするべきことは、それだけではない。」
「では、一体どのようなことを?」
「そこなのじゃ。英樹殿には、仁姫以外にも、美しい姫御前がまだ四人もおいでになる由。私の息子には、男子ばかり大勢できてのう。ついては、英樹氏の姫御前を、我が家の孫たちと縁づけて頂きたいのじゃ。それと、ご子息の太郎君のご養育を、この年寄りに任せて頂きたいのじゃ。」
「有難いお申し出で、恐縮ではありますが、すぐにご返答致しかねますゆえ、御処をお教え下さい。日を改めて返答に伺います。」
「太郎君が、五歳になられる前に、万が一この年寄りが死ぬようなことがありましたら、息子の奈良麻呂に養育係をやらせますゆえ、何卒宜しくお願い申し上げます。」
「日を改めてご返答致します。」
「では、書くものをお借りできますかな?」
英樹氏は、ご老人に、紙・硯・筆をお貸しになった。橘諸兄氏は、ご自分の住まいの所在地を、紙に書き記すと、英樹氏にお渡しになった。
諸兄氏が去ると、英樹氏は武官をお呼びになった。
「仁姫は、今どうしておる?」
「ご自分のお部屋で、琴の練習をなさっているご様子にございます。」
「では、父がすぐに今、訪ねて行く、と伝えよ。」
「かしこまりました。」
仁姫付きの女官は、武官から知らせを受けると、すぐさま仁姫に伝えた。
「なにっ。父が?すぐに琴を片付けよ。」
仁姫は、英樹氏を迎えた。
「お父様。どうなさったのです?」
仁姫は、小袿姿で姿勢を正し、父君を迎えた。
「仁姫。」
英樹氏は、静かに口を開いた。
「懐妊したと聞いたが、誠か?」
「………。」
「あなたが懐妊したのが本当なら、相手の人に一度お会いしたいのだ。嶋田麻呂殿は、今京職でお務め中だな?」
「はい。」
「今度夜、こちらにお見えになったら、私にも会わせてくれ。」
「嶋田麻呂様は、今はもう毎日私のところにお越し下さいます。」
「では、今晩早速、父である私も呼びなさい。婿君がどんな方か、一度よくお話をしておきたい。」
「かしこまりました。」
「あっ、そうだ。母君も同席させたいが、良いか?」
「はい。」
英樹氏は、次の瞬間、武官をお呼びになった。
「北方は、どうしておる?」
「ご自分のお部屋で、書物にお目を通しておいでに御座います。」
「今日は、大事な話があって、私が部屋に行く、と伝えよ。」
「かしこまりました。」
女官から、英樹氏がご自分の部屋を訪ねてお越しになることを聞いた藤姫は、
「おやっ?殿がか?」
と仰せになった。
「左様でございます。」
英樹殿は真剣な眼差しで、藤姫の部屋に入られた。
「北方。」
「殿。今日は、子作りではないのですか?」
藤姫は、冗談を言いながら、英樹殿を優しい目でしっかりとご覧になった。その微笑の美しさが、たまらなく、英樹殿に藤姫を愛しく思わせた。
六歳の頃から、園姫の養育をお受けになった一ノ君は、仁姫と名付けられており、父君の榎本英樹氏は、十五歳になった仁姫を、地方豪族に嫁がせたい、とお考えでありながら、なかなか姫のお相手を見い出せずにいた。しかし、京職に勤務していた若い武官の一人が、ある夜、突然榎本家の寝殿に迷い込んできた。律令の知識に優れ、剣の腕前もあったが、この日は何故か、仲間と共に遅くまで武術の稽古に励んでいて、暗い中で道に迷ってしまった。この人は、橘嶋田麻呂、という御名であった。迷い込んだ寝殿の中で、美しい琴の音がしたので、嶋田麻呂殿はこんな歌を詠んだ。
暗がりに
懐かしき音
響くとは
道の分からぬ
音の主かは
(暗がりに琴の音が響いても、奏でていらっしゃる方が分からないので、道を前に進んで行くことができません。)
琴を奏でていたのは、勿論仁姫であった。仁姫はすぐに歌を返された。
迷い路は
音の主にぞ
聞くべきを
すぐ近くにぞ
侍りたる者
(進む道がお分かりにならないのなら、琴を奏でている者にお聞きになればよろしゅうございます。こんなに近くにおりますものを。)
嶋田麻呂殿は、ふと気が付いて前方を見ると、女房装束の天女のような女君が、真直ぐに嶋田麻呂殿を見下ろしていた。仁姫は、嶋田麻呂殿をご自身の部屋へ招き入れた。母君の藤姫に似て、女君の美しさに恵まれていた仁姫は、立ち待ち嶋田麻呂殿を虜にしてしまった。そのままお二人は、寝所を共にされた。夜通し仁姫は、嶋田麻呂殿に、お仕事のことをお聞きになった。仁姫は、嶋田麻呂殿が青海波も舞うことができることをお知りになった。
「今後は毎日、お仕事が終わったら、私の家においで下さい。私の琴の音に合わせて、青海波を舞って頂きたいのです。」
仁姫は言われた。その翌日から毎日、嶋田麻呂殿は、京職のお仕事が終わると、仁姫のお部屋に通われた。
嶋田麻呂殿が、仁姫のお部屋に通われるようになってから半年が過ぎた頃、一人の考え深そうな老人が、榎本英樹殿をお訪ねになった。
「殿。橘諸兄と申されるご老人が、殿とのご面会をお望みにございます。」
武官の取り次ぎを受けた英樹殿は、ハッとした。
「何っ!橘殿か。すぐに客間へ通せ。」
七〇八年、元明女帝の即位式で活躍した橘三千代氏は、女性とは言っても、当時あまりにも有名であったが、この三千代氏の働きに対し、一族が橘の姓を賜っていた。最も最近では、橘氏は京職にお務めの子弟が多いとのことであった。英樹を訪ねてきた橘諸兄氏は、助麻呂殿の祖父君にあたられる。
客間で待っていた一氏は、英樹氏の姿を認めると、淡々と話し始めた。
「これは、榎本殿。初めてお目にかかります。」
「世間に名高い橘氏のご足労をわざわざ頂き、恐縮しております。」
「榎本殿が恐縮されるほどのことでもありますまい。」
「ところで、橘氏ほどの方が、我が家へお越しになったご用向きは?」
「おやっ?そのご様子では、何もご存じないのですかな?」
「これはお恥ずかしい。私どもに、何か手落ちでも、ありまいたかな?」
「いえ。これは手落ちというほどのものでもありますまい。」
「ご息女の仁姫様のことじゃ。」
「仁姫が、何か失礼なことでも致しましたかな?」
「いえ。失礼なことをしたのは、むしろ、わしの孫・嶋田麻呂の方かもしれませんな。」
「と、おっしゃいますと?」
「おやおや。そのご様子では、失礼ながら、何もご存じないと見えますな。」
「一体、どうなさったのです?」
「実は、大変申し訳ないんだが、半年ほど前に、孫の嶋田麻呂が、こちらの寝殿に迷いこみましたのじゃ。」
「………。」
「その折、たまたま仁姫様とお会いになり、二人とも、えらく気持ちが合われ、仁姫様は、既にご懐妊の由にございまするぞ。」
「何ですと?仁姫が懐妊っ!」
「左様じゃ。しかし、今日お話しするべきことは、それだけではない。」
「では、一体どのようなことを?」
「そこなのじゃ。英樹殿には、仁姫以外にも、美しい姫御前がまだ四人もおいでになる由。私の息子には、男子ばかり大勢できてのう。ついては、英樹氏の姫御前を、我が家の孫たちと縁づけて頂きたいのじゃ。それと、ご子息の太郎君のご養育を、この年寄りに任せて頂きたいのじゃ。」
「有難いお申し出で、恐縮ではありますが、すぐにご返答致しかねますゆえ、御処をお教え下さい。日を改めて返答に伺います。」
「太郎君が、五歳になられる前に、万が一この年寄りが死ぬようなことがありましたら、息子の奈良麻呂に養育係をやらせますゆえ、何卒宜しくお願い申し上げます。」
「日を改めてご返答致します。」
「では、書くものをお借りできますかな?」
英樹氏は、ご老人に、紙・硯・筆をお貸しになった。橘諸兄氏は、ご自分の住まいの所在地を、紙に書き記すと、英樹氏にお渡しになった。
諸兄氏が去ると、英樹氏は武官をお呼びになった。
「仁姫は、今どうしておる?」
「ご自分のお部屋で、琴の練習をなさっているご様子にございます。」
「では、父がすぐに今、訪ねて行く、と伝えよ。」
「かしこまりました。」
仁姫付きの女官は、武官から知らせを受けると、すぐさま仁姫に伝えた。
「なにっ。父が?すぐに琴を片付けよ。」
仁姫は、英樹氏を迎えた。
「お父様。どうなさったのです?」
仁姫は、小袿姿で姿勢を正し、父君を迎えた。
「仁姫。」
英樹氏は、静かに口を開いた。
「懐妊したと聞いたが、誠か?」
「………。」
「あなたが懐妊したのが本当なら、相手の人に一度お会いしたいのだ。嶋田麻呂殿は、今京職でお務め中だな?」
「はい。」
「今度夜、こちらにお見えになったら、私にも会わせてくれ。」
「嶋田麻呂様は、今はもう毎日私のところにお越し下さいます。」
「では、今晩早速、父である私も呼びなさい。婿君がどんな方か、一度よくお話をしておきたい。」
「かしこまりました。」
「あっ、そうだ。母君も同席させたいが、良いか?」
「はい。」
英樹氏は、次の瞬間、武官をお呼びになった。
「北方は、どうしておる?」
「ご自分のお部屋で、書物にお目を通しておいでに御座います。」
「今日は、大事な話があって、私が部屋に行く、と伝えよ。」
「かしこまりました。」
女官から、英樹氏がご自分の部屋を訪ねてお越しになることを聞いた藤姫は、
「おやっ?殿がか?」
と仰せになった。
「左様でございます。」
英樹殿は真剣な眼差しで、藤姫の部屋に入られた。
「北方。」
「殿。今日は、子作りではないのですか?」
藤姫は、冗談を言いながら、英樹殿を優しい目でしっかりとご覧になった。その微笑の美しさが、たまらなく、英樹殿に藤姫を愛しく思わせた。