初恋
プロローグ

 ぽかぽかした春の陽気、風薫る季節を愉しむように沙織は縁側で陽を浴びる。還暦が過ぎ去り視野が霞むようになっても、陽の温かみは身体深くに染み、心をも包む。
 庭では厳しい冬を耐え芽吹いたふきの群生が、春に趣を添えていた。飼い犬で雑種のタロ吉はこの陽気があまりに心地が良いのか、犬小屋の前で丸くなって寝ている。
「ただいま、お婆ちゃん」
 不意に掛かる声の主を向くと、そこには制服姿の美咲が立っている。中学生に上がってから急に成長したのか、今や沙織の背丈をゆうに超えており、沙織は密かに若い頃の自分と重ね合わせたりしていた。沙織の返事を聞く間もなく、美咲は鞄を携えたまま隣に座る。
「おかえり、美咲ちゃん。今日は早いのね」
「やだな、お婆ちゃん。今日は卒業式で早く帰れるって言ったよ」
「そうだったかね? ごめんなさいね。忘れてたわ」
「いいよ。それより、お母さんはまだ仕事だよね?」
「夕方には帰るんじゃないかね」
「ふ~ん……」
 何か言い含んだ返事と怪訝な横顔に、沙織はいつもと違う空気を感じる。
「美咲ちゃん、学校で何かあったのかい?」
「えっ?」
「どこか元気ないようだけど……」
「お婆ちゃんすごいな、なんで分かっちゃうんだろ」
 美咲は驚いた表情から一瞬笑顔を見せる。そして、決心したように溜め息をつくとゆっくり口を開く。
「実はさ、初恋の先輩が今日卒業しちゃったんだ。もちろん臆病な私は告白できずにサヨウナラって感じ。進学先の高校も遠いところみたいだし、なんかちょっぴり失恋気分なんだよね」
 浮かない顔で話す美咲を、沙織はニコニコしながら見つめている。
「あ、お婆ちゃんなんでニコニコしてるの? 感じ悪い」
「いやいや、ゴメンよ。でも、美咲ちゃんの秘めた想い、今日感じた痛み、ずっと忘れず大切にするんだよ」
「うん。多分、一生忘れない……」
「いい子だね、美咲ちゃんは」
 想いを噛み締めながら答える美咲に、沙織の心も温かくなる。
「なんか話したら少し楽になったかな。あっ、お婆ちゃんの初恋ってどんなの? すっごい気になる」
 からかうように顔を近づける美咲に、沙織も少し戸惑い苦笑する。
「お婆ちゃんの初恋は、小学生の頃かしら。美咲ちゃんと同じで、胸に想いを閉じ込めたまま終わったわね」
「やっぱりそうなんだ。初恋って叶わないってよく言うもんね。叶っても上手くいかないって」
「そうだね、初恋は、思い出話の一つにしかならないのかも知れないねえ」
「私の初恋も、いつかはいい思い出になるのかな~」
 美咲の初恋という問い掛けに、沙織の脳裏には自然とあのときの過去がよぎる。
「初恋を……」
「ん?」
「初恋を、生涯ずっと追い続けた人の話。聞きたくないかい?」
「えっ、初恋を生涯追い続けた人? それすごいじゃん。聞きたい聞きたい! どんな人?」
「そうだねぇ、とても純粋で優しくて、それでいてすごく強い人……」
 沙織は青い空を見上げると、嬉しげな眼差しで流れ行く雲を見つめた。

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