初恋
第三十六話 重さ
沙織から手渡された手紙を読み終えた修吾は、黙ってテーブルに置いて目の前の空間を直視し続ける。頭の中は手紙の衝撃的な内容でいっぱいだ。
(深雪さんがこんな事実を抱えて生きていたなんて、俺はなんておめでたいヤツなんだ。深雪さんの想いも知らずあれから何十年もの間、俺は心の中でただ責めていただけじゃないか。それに比べ深雪さんの俺への想いは……)
厳しい顔で黙って考え続ける修吾を、隣に座る沙織も黙って見つめる。沙織自身、掛ける言葉が見つからない。時計の針は午前十時を少し回った所を指し、深雪の手術開始時間まで後一時間を切っている。長く重い沈黙を破ったのは修吾からだった。
「沙織、おまえこの手紙、読んだのか?」
「ええ……」
「いつだ」
「先週、お母さんが緊急入院した翌日。実家で入院の準備をしてたとき偶然見つけたの。いけないって思ったけど、つい……」
「そうか」
そうつぶやくと修吾は目を閉ざす。沙織も気まずそうに俯くが、意を決して語り始める。
「この手紙のこと、修吾さんに見せるか隠すか、正直すごく迷った。実はね、お母さんにこの手紙のことも、修吾さんとの過去も全部聞いたの」
修吾は沙織の話に黙って耳を傾ける。
「お母さんは最初驚いた顔をしてたけど、この手紙の内容に嘘はないって素直に認めてた。私もこの手紙を読んだときひどく混乱したし、卒倒しそうなくらいの衝撃を受けた。だって、お母さんの想い人が修吾さんだったなんて思ってもみなかったもの。けどね、手紙を読んで、お母さんから直接話も聞いて、軽蔑するような気持ちにはなれなかった。だって、私が生まれる前の何十年もの間ひたすら想いを隠し、痛みに耐えて生きて来てた。しかも、全て修吾さんを想っての行為だったなんて、どれだけ深く愛していたか、痛いくらい伝わってきたよ……」
沙織は今にも泣きそうな顔で話し続ける。
「お母さんからはこの手紙のことを修吾さんには絶対話さないでって強く言われた。私も子供じゃないからその意味は分かるつもり。お母さんの何十年という時を無駄するようなことはできないし、私と修吾さんは既に家庭を持っている。だけど、そう考える反面、生きるか死ぬか分からない今の状況でも、愛する人に想いを伝えないお母さんを見てると、見てると……」
沙織は我慢できなくなったのか、口を抑えて涙を流す。その姿に修吾の胸も苦しくなる。
「私は、想いを伝えるという行為がそんなに悪いことなの、って思う。お母さんが我慢してた意味は分かるよ。絶対叶わない恋だから、伝えるだけ後でお互いが辛い想いをするのも分かる。だけど、例え叶わなくても、自分の素直な気持ちを愛する人に伝えるという行為に、意味はあると思う」
「沙織……」
「お母さんの生き方が間違っているとは思わない。だけど、正しいとも思わない。私は、今日明日分からない命ならば、尚更ちゃんと気持ちを伝えて死にたい。じゃないと、可哀相だよ、自分自身の心に対して……」
肩を震わせ涙する沙織を修吾は優しく抱き寄せる。
「おまえは、本当に優しい女だな」
「そんなことない。私、この手紙を修吾さんに見せたくなかった。手紙を読んで、修吾さんの心の中にいる人がお母さんだということにも気付いてしまったから。おまけにこんな大事な日まで隠し続けていた時点で、私はズルイ女だよ……」
「でも、打ち明けてくれた。ズルくはない」
「ズルいよ。私は修吾さんが考えるようないい女じゃない。自分本位で、自分が可愛いから手紙を見せたの。お母さんとの約束を破り、修吾さんにも辛い想いをさせた。そして、手紙を見せたとしても、優しい修吾さんは私を捨てたりしないのも計算してた。むしろ、見せることで私自身いい子を演じることができる。全て自己保身の行為なの。最低だ、私。お母さんと比べたら私なんて……」
「もう何も言うな。自分を蔑んでみても仕方ないだろ」
沙織は修吾の腕を強く掴みながら何度も頷く。
(なんてことだ。まさかこんな事態になるなんて。しかし、どんな形にせよ、深雪さんの本心を知ることができた。無論、深雪さんのこの想いを受け入れることなどできない。深雪さんも受け入れて貰おうなんて考えてはいないし、伝えようとすら思っていない。問題は、今俺の心を支配するこの焦燥感の理由……)
修吾は刻々と迫る手術の時間を感じながら、己の心に問い掛ける。
(俺の、本当の気持ちを伝えていないということ。深雪さんは間接的だが想いを俺に伝えてくれた。だが俺は何一つ伝えちゃいない。深雪さんを責めて嫌いなフリをして、俺は子供みたいにただ反発していただけだった。俺だって本当は分かっているんだ。未だ心の奥底に、深雪さんのことを想う淡い気持ちがあるということを……)
黙ったまま時計の針を見つめる修吾に沙織は問い掛ける。
「修吾さん、お母さんに気持ち伝えなくていいの?」
鋭く切り込まれる沙織の言葉に、修吾の心は揺れ動く。
「私の頭の中はもうぐちゃぐちゃ。お母さんの想い、修吾さんの想い、私の想い。どの想いも私の中では同じくらい大切だし、大事にしたい。その反面、お母さんに修吾さんの心を知られたくないって気持ちもある。知られたからって二人が付き合うなんてことが無いのは分かるよ。二人ともすごく大人だし、お母さんは私を犠牲にしてまで女の幸せを追う人じゃない。だけど……」
一呼吸置き、苦しそうな顔で沙織は口を開く。
「だけど、修吾さんの心も体も、他の女に渡したくない! 私、感じるの。もし修吾さんが気持ちを伝えたら、その時点で心はお母さんのモノになってしまうって。戸籍上も肉体的にも修吾さんは私の夫で、私を大切にしてくれる。これからもずっとそうしてくれると思ってる。でも、実の母親に夫の心を奪われるのは絶対嫌。肉体的に繋がっていなくても、心で繋がっている方が私は耐えられない。それならばいっそ、遊びで他の女と寝てくれた方がずっといい。お母さんの想いも、修吾さんの想いも、私なんかが太刀打ちできる重さじゃない。怖いの、その重さが……」
がっしりした修吾の腕を必死に掴みながら、沙織は自分の素直な気持ちをぶつける。ただ黙って耳を傾けていた修吾は、優しく腕を解くとおもむろに立ち上がる。
「修吾さん……」
「病院へ行こう。お義母さんに何も言わず、手術に向かわせる訳にはいかないだろ」
沙織は何か言いたげな顔をしていたが、素直に頷く。車のキーを荒々しく握ると、修吾は足早に玄関に向かう。沙織は涙を拭きながら、その後ろ姿を物憂げな表情で見つめていた。