初恋
第四十四話 涙(深雪編)

 ニ月。仕事が終わりいつもの居酒屋に行くと、優子と真司が笑い合っている。こんな関係になるまで分からなかったが、優子は割と一途な面があり、真司は陽気でよく喋るタイプだった。自分自身も引っ込み思案な面があったが、優子によって素の部分をたくさん引き出されている。
「お待たせ」
「遅い! 遅いから深雪の奢り」
「うるさいこのアル中」
 慣れたせいか優子の無茶ぶりに対してもきつく返せるようになっている。そして何より変わったのが……、
「お待たせ、真司さん」
「お疲れ様、深雪」
 二人の関係が深い中になっていること。
「ちょっと、お二人さん。いちゃつくのは私が居ないときにして下さいよ?」
「いちゃつくなんて、そんな、なぁ深雪」
「そうよ、ねぇ真司さん」
「その掛け合いが既にいちゃついてるって言ってんだよ! ボケ!」
 そういうとジョッキを傾けて一気飲みをし始める。
「真司さん、優子またなんかあったの?」
「ああ、またフラれたらしい。理想高いくせに自分については一切妥協しないからな優子は」
「朝から機嫌悪かったのはそのせいか」
 荒れている原因に納得しながらも、この酒癖の悪さもどうにかしないと恋愛は無理かなと冷静に判断する――――


――二時間後、ぐだぐだと管を巻く優子をたしなめ、何とか自宅に送り返す。毎度のことなので二人は慣れており、タクシーに詰め込むと運転手に住所を告げた。
 優子を見送り二人っきりになると道端にも関わらず、真司は抱きしめてくる。
「ちょっと、人前は嫌!」
「ハグだよハグ。それくらいいいだろ?」
「真司さん、お酒入ると大胆になるからこわいよ」
「ごめんごめん」
 真司をいさめると、駅までの道のりを並んで歩く。居酒屋から駅までは徒歩十分と程よい距離だ。寒い風が吹く中、しばらく歩いていると真司が突然立ち止まる。
「まさか吐きそうになった?」
 心配して近づくと再び抱きしめられる。
「ちょっと、真司さん……」
「今夜、家に来なよ」
 付き合い初めて五ヶ月になるが、真司の家に行くということは、行為に及ぶこととイコールになっていた。何も言わない深雪を見て、真司は悪ノリし過ぎたと判断してすぐ離れる。
「ごめん、酔って悪ノリし過ぎた。今のナシ」
 深雪は溜め息を吐いて切り出す。
「実は、真司さんに大事な話がある」
 このタイミングで切り出され、真司の頭の中では当然別れがよぎる。
「あ、ホントごめん! もう道端で抱きしめたりしない! 絶対しないから!」
 勘違いして焦っている真司を見て笑顔で語る。
「赤ちゃん出来たみたい」
 予想外の台詞に真司は一瞬固まる。
「えっ?」
「真司さんと私の子供」
 真司は未だ何も言えずに固まっている。
「体調がなんか不安定だなって思って、なんとなく調べたら陽性だった。簡易検査だから間違いって可能性もあるし、今度産婦人科行ってみます」
 産婦人科という具体的な名前が出て、真司もハッとする。
「あの、これって、めでたいことだよね?」
「真司さんが、めでたいって言ってくれたら、そうなります」
「プロポーズ、まだだったよね」
「近いうちされるって思ってます」
 その言葉を聞いて真司はすぐに深雪を抱きしめる。
「幸せにするから、俺が深雪と子供を幸せにする。結婚しよう」
「はい」
 真司の想いを深雪は素直に受け止める。それと同時に修吾の立場を想像し胸が痛む。深雪は真司に抱きしめられたままつぶやく。
「道端で抱きしめないって約束、三分ももたなかったね」
「ごめん、でも今だけはこうせざるを得ない気がするんだ」
 真司の熱く優しい想いに触れ、心に鈍い痛みを感じながらも、その全てを受け入れる決意をしていた――――


――三月、浅い眠りから目を覚ますと深雪は窓の景色に目を向ける。午前五時前ということもあり、薄暗い戸張が見て取れた。隣でスヤスヤ眠る真司を見て、胸の奥はまだモヤモヤした気持ちになっている。
(この人を好きになったこと、後悔はしていない。もちろんお腹に宿したこの子のことも含めて……)
 深雪は愛おしそうに優しくお腹をさする。
(優しくて誠実で、私にはもったいないくらいの人。この半年の間、私が壊れることなく生きてこれたのは、真司さんのお陰だ。だからこそ、こんなにも胸が痛むんだろうな。あなたと関係を持った最初の理由が、修吾君との叶わない想いにあったなんて絶対に言えない……)
 机に飾る修吾と直美の写真を見つめながら深雪は想う。結婚することが正式に決まり、修吾と別れる覚悟ができた深雪は半年ぶりに連絡を取った。
 優子が冗談で言っていた結婚と妊娠のダブルパンチを、本当に報告するハメになるとは自分自身でも驚いている。
(結婚の話を聞いたら、修吾君どんな顔をするのかな。動揺して取り乱したりするのかな。怒って結婚を許さないって引き止めたりなんか、しないよね……。止めても想いは叶わないんだから……)
 突然手の甲に冷たい感覚が伝わり、驚いて手を見ると水滴が甲にポタポタと零れ落ちている。
(涙? いつの間にか泣いてたんだ。そっか……、私、こんなにもまだ修吾君のことを想って……)
 泣き声を押し殺すように唇を噛み、深雪は肩を震わせていた――――


――二日後、待ち合わせのモニュメントに寄り掛かり深雪は思い悩む。
(結婚の話は今日伝えなくてもいつかは修吾君の耳に入る。やはり今日ちゃんと伝えるべきなのだろう……)
 重苦しい気持ちを抱きながら人混みを眺めていると、小走りで駆け寄る修吾の姿が目に入る。
「ごめん、深雪さん待たせちゃったみたいだね」
「おはよう修吾君。待ち合わせ時間より早く来たのは私なんだから気にしないで。じゃあ、どこ行こうか? それともお昼食べちゃう?」
「まだお昼には早いよ。どっか遊びに行こう」
 楽しそうな修吾に深雪も笑顔になる。
「了解。今日は卒業祝いだし、たくさん遊ぼうね」
(今は修吾君との時間を楽しく過ごすことだけを第一に考えよう)
 気持ちを切り替えて深雪は修吾を見つめていた。
 夕方、大宮駅に隣接する公園を二人はぶらぶら歩く。陽も暮れ始めており、園内に子供の姿は見られない並んで歩くその姿は、第三者から見ればカップルと取られても不思議ではない雰囲気だ。しばらく並んで歩いていたが、修吾の方から立ち止まり深雪と向き合う。
「今日は本当に楽しかった。ありがとう、深雪さん」
 にこやかに礼を言う修吾に深雪も嬉しくなる。
「どういたしまして。私もすごく楽しかった」
「プレゼント大切にするよ」
「うん」
(言わなきゃ、結婚のこと……)
 しばらく互いに沈黙を守っていたが、深雪は思い切って口を開く。
「あの……」
「あのさ…」
 重なる言葉に同時に苦笑いをする。
「修吾君からどうぞ」
「いや、レディファーストで深雪さんから」
「う、うん、じゃあ……」
(残酷なレディファーストね……)
 修吾を見ると真剣な顔付きをしている。
「実は、大事な話があるの」
「な、なに?」
(修吾君、ごめんなさい……)
 深雪は目をきつく閉じて言葉を振り絞る。
「私、来月結婚するの」
 深雪の言葉に修吾は驚いた顔をする。
(ごめんなさい、ごめんなさい。修吾君……)
「妊娠もしてる。まだ、彼とお母さん以外には言ってないんだけど、修吾君には面と向かってちゃんと報告したかったの」
 俯いて黙り込む修吾に深雪も複雑な顔をする。
「修吾君?」
「えっ? あっ、そうなんだ……」
 動揺する修吾に深雪の胸はズキズキ痛む。
(凄くショック受けてる。本当にゴメン……)
「ごめんなさい、こんな大事なこと黙ってて……」
「いや、別に謝ることじゃ……」
 必死に平静を装おうとする修吾を見て深雪は泣きそうになる。
「修吾君、昔から私のことお嫁さんにするって口癖のように言ってたでしょ? だからすごく言いづらかった……」
 深雪の告白に、修吾は重い口を開く。
「相手は、どんな人?」
「会社の先輩で、私をよく理解してくれている人」
 しばらく黙っていた修吾は一言だけ、つぶやくように問う。
「幸せなの?」
 このセリフに深雪の胸の鼓動が大きく脈打つ。
(幸せかだなんて……、そんなセリフ。修吾君にだけは聞かれたくなかった……)
 深雪は泣きたいのを我慢して頷く。
「そっか、よかったね」
 感情のこもっていない祝福を深雪は敢えて受け止める。
「うん、ありがとう修吾君」
 今にも溢れそうな涙を隠すように深雪は視線を外す。
「俺、昔から深雪さんのこと慕ってたけど、現実的に結婚とかまでは考えてなかった。だからこうやって現実を突き付けられると、自分がいかにガキかって思い知った」
「修吾君はガキじゃない。私が思わせぶりな態度を取ってたのが悪いのよ」
 修吾のセリフに深雪は淡々と応えるが、平静を保つのでギリギリだ。
「ホントにゴメンね。せっかくの卒業祝いの日にこんな話をして。でも、とても大事な話だったし、修吾君には包み隠さずちゃんと伝えたかったから。私の気持ち、分かってくれるかな?」
 修吾はただ黙って頷く。深雪も頷くしかないことを知った上で聞いている。
「じゃあ、今日は帰るわね。忙しくてなかなか会えないかもしれないけど、何かあったら連絡してね。これからも頼れるお姉さんとして修吾君を支えるから」
 苦しみながらも笑顔を作って見つめる深雪に、修吾は頷くしかない。
(きっと連絡は来ない。会うのもこれで最後だろうな……)
「じゃあ、またね。おやすみ修吾君」
「おやすみ、深雪さん……」
 しばらくお互いを見つめ合った後、深雪の方からきびすを返し離れて行く。その刹那、我慢していた涙がまぶたから零れ落ち頬を伝う。
(ごめんなさい修吾君。ごめんなさい、私の心……)
 どんなに我慢しても溢れる出る涙に深雪はただ身を任せ、足早にその場を離れる。同じく涙しているであろう修吾の視線を感じながら。


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