初恋
第五十四話 腕の中
半年後、赴任当初はよく話していた薫とも会話が減り、食欲も落ちてきていた。当然体力は落ち少しずつ自分に死が迫っているのを感じる。
死ぬのは昔から怖くはないが、自分で上手く動けなくなったり、意識があるまま寝たきりになるのは恐怖以外の何もでもない。同じ施設内で、首から下全てが麻痺している患者がいると聞いたが、そんな状態だけは絶対に避けたいと考えていた。
昼食を取るといつものように花満開の中庭に向かう。花の匂いを嗅ぎながら修吾は作戦を立てる。
(昔と違って今は目が見えない上に、車椅子移動。操作を誤っての転落死なら全国的に取り上げられることもないはず)
修吾は看護婦から行ってはいけないと言われていた、岸壁に車体を向ける。目が見えなくても、波風の音で崖がどの辺りにあるかは想像がつく。波の音が真下あたりの場所に来ると、修吾はゆっくりと車椅子を止める。
(最低の人生だったな。親に捨てられ、最愛の人に想いも伝えられず、愛してくれた人たちを傷つけた。俺はこの世に必要のない人間だった。深雪さん、ごめん……)
修吾は覚悟を決めると車輪を前に進めようと手に力を込める。
「そんなに前に出ちゃ危ないですよ」
刹那、突然背後から女性に声をかけられ修吾はビクッとする。
(まずい、看護婦か?)
「どうもありがとう。目が見えなくて方向を見失っていたみたいだ」
「いえいえ、危ないので院内までお送りしますね」
女性はそういうと車椅子を回転させて後ろから押し始める。
「すいません。助かります。あの、看護婦さんですか?」
「いえ、知人の見舞いに来た者です。海の眺めがいいからフラっとしてたところに、あなたと出くわしたんです」
「そうですか……」
「あ、あそこ木陰になってますから、そこで少し休んでいきましょうか」
女性にいざなわれるまま修吾はじっとしている。
「そういえば、お互い自己紹介してませんでしたね。私は、ナナミと言います。あなたは?」
「加藤です」
「加藤さんですか。改めて宜しくお願いします」
「あ、こちらこそ……」
(なんか調子狂うような話し方するな。ナナミって姓か名かどっちなんだろうか? 綺麗な声をしているが、この声って……)
「ところで、目の怪我どうされたんですか? 差し支えなければでいいんですが」
「これは仕事中ダイナマイトの爆風で失明したんですよ。もう治ることはないみたいです」
「そうなんですか……」
「ま、賠償金はしっかり頂きましたけどね」
久しぶりに他人と話すことで修吾は饒舌になる。ナナミも愉快な話題を提供し修吾を楽しませる。そして、恋愛の流れで深雪の話に触れた。
「じゃあ、加藤さんは今でも深雪さんを愛してらっしゃるのね」
「そうですね。バカみたいですけど、そうなりますね。それに、他の相手と結婚するなんてマネは、罪を侵した俺にはできない。償いとまではいかないまでも、俺はずっと一人で生きて行くつもりです」
修吾の言葉にナナミは沈黙する。
「あ、すいません。こんなしみったれた話。気分悪くされました?」
「いえ、加藤さんの熱い想い。素敵です」
「ははっ、おっさんの戯言ですよ」
「ご謙遜を。そろそろ日が陰ってきましたし、病室までお送りしますね」
「これはどうも。お願いします」
ナナミに言われるまま大人しく車椅子を押されていると、噴水のある中庭付近で止まるのを感じる。
「どうかされましたか?」
「私、今日東京に帰る予定なんです」
「そうですか。残念ですねナナミさん面白いし、もっといろんな話がしてみたかったです」
「私も同じ気持ちですよ。じゃあ最後に、一つお聞きしても宜しいでしょうか?」
「なんなりと」
「今日のお昼、なんで自殺しようとしたんですか?」
ナナミの心をえぐるような質問に修吾は息をのむ。
(バレてたのか……)
沈黙する修吾にナナミは話を続ける。
「加藤さんはさっき、生きることが償いと言いました。あれは嘘ですか? 本当は、辛いんじゃないんですか? 一人ぼっちが……」
思いがけないナナミの言葉に内心動揺するも、何とか言葉を探し言い返す。
「さっきも言ったけど、私は罪を侵した人間です。たくさんの人を傷つけた。寂しさも償いの一つです……」
「なら、自殺なんかせず、生きて苦しんで償って。自殺なんて、そんな悲しいこと、しないで!」
口調厳しいナナミの異変に修吾は戸惑う。
「ナナミさん?」
「私はナナミじゃない。まだ分からないの? 私の声、忘れたの?」
(まさか、やっぱり!)
「み、深雪さん?」
「気付くの遅い。私が帰るって言う最後の最後までとうとう気付かないなんて」
「な、なんで深雪さんがここに?」
「婦長が同級生。薫から聞いてるでしょ?」
問われて赴任当初に薫と話した内容が思い出される。
「薫が連絡くれたの。修吾さんが入院しているからお見舞いに、って」
「わざわざ俺のために……」
「そう、わざわざ修吾さんのために」
「君の家族に申し訳がない。早く帰ってくれ!」
「いいえ、私は帰らないわ」
「深雪さん?」
「私はあなたの傍にいる」
「ダメだ! 沙織やお義父さんが……」
「沙織は再婚して幸せになってる。真司さんは、三年前に亡くなったわ」
「そんな……」
「知ってるとは思うけど、結婚はできないし、子供ができるような身体じゃない。けど、もし修吾さんさえよかったら……」
「でも、俺はこんな身体だし、深雪さんを守っていけない」
「さっき言ったじゃない、生きて償うって。だったら、私の傍で苦しんで悩んで、そして、幸せにして……」
「深雪さん!」
車椅子椅子から立ち上がると修吾は背後に立つ深雪を強く抱きしめる。目には見えないが、腕の中にはずっと憧れていた深雪がいる。
「修吾さん」
深雪の声に修吾の胸は熱くなる。
(間違いない。この声は深雪さんだ!)
「俺、君にずっと言いたかった言葉があるんだ」
「私も……」
「愛してるよ、深雪」
「私も愛してる、修吾」
陽が完全に落ちた中庭で、二人の影が一つになる。柔らかい唇の温かさと胸の鼓動を感じ、修吾の瞳にも深雪の瞳にも自然と涙が溜まり、いつまでも溢れ零れていた。