初恋
第五十九話 嘘(沙織編)
考えがまとまらないまま屋上を後にし、少し道に迷いながらも中庭に出る。中庭は色とりどりの花壇で飾られており、フラワーパークと言って差し支えない。中庭の中央にはイルカをかたどった噴水もあり、自然に囲まれたこの病院の徹底したスタンスがここにも見てとれる。修吾が涼んでいた木の元に到着するが、本人の姿は見当たらない。
「どこ行ったんだろ。院内に戻っていたら途中で会っててもおかしくないんだけど」
広い花壇の中庭を見渡すが、車椅子どころか人の姿すら見受けられない。
(何か胸騒ぎがする……)
中庭を外れて車椅子でも移動できそうな場所を走り回る。中庭を出るとそこは鬱蒼とした原っぱが広がり、さらにその先が海となっている。海と言ってもこの病院から直接海岸に出ることは出来ない。海沿いと言っても目の前は絶壁なのだ。
もしものことを考え、沙織は真っ先に一番危険な絶壁周辺に向かう。絶壁付近には転落防止の冊が設置されているが、飛び越えられない高さではない。沙織は息を切らしながら冊沿いを走る。
(修吾、お願い、無事でいて……)
祈るような気持ちで走る沙織の目の前に少し大きめの木が目に入る。
「ダメだ、体力なさすぎ。あそこで一休みしよ」
とぼとぼした足取りで向かうと突然木陰から人陰が現れる。ビクッと一瞬怯むが、それは間違いなく修吾だ。
(修吾! 無事だった、よかった)
話し掛けようと近づくが修吾の進んでいる方向を見て愕然とする。その先はちょうど冊が切れていて絶壁と隣り合わせだ。
(まさか、修吾……)
どんどん絶壁に近づいて行く修吾に沙織は堪らず声を掛ける。
「そんなに前に出ちゃ危ないですよ」
突然背後から話かけられ修吾はビクッとしている。
「どうもありがとう。目が見えなくて方向を見失っていたみたいだ」
(嘘。波の音でその先がどうなっているのか分からない修吾じゃない……)
「いえいえ、危ないので院内までお送りしますね」
沙織は車椅子の背後に付くと方向転換させる。
「すいません。助かります。あの、看護婦さんですか?」
久しぶりに聞く修吾の声に沙織の胸は熱くなる。
「いえ、知人のお見舞いに来た者です。海の眺めがいいからフラっとしてたところに、あなたと出くわしたんです」
「そうですか」
(修吾少し痩せてる……)
「あ、あそこ木陰になってますから、そこで少し休んでいきましょうか」
目に入った木陰に修吾を誘うと自分も隣に座る。痩せて少し皺も増えているが間違いなく修吾だ。沙織は早くなる胸の鼓動を感じながら話し掛ける。
「そういえば、お互い自己紹介してませんでしたね。私は……」
(どうしよう……)
ふと幹の方に目をやると、木の名前を記したプレートが目に入る。
(七実の木……)
「ナナミと言います。あなたは?」
「加藤です」
「加藤さんですか。改めて宜しくお願いします」
「あ、こちらこそ……」
(つい偽名使っちゃったけど、ま、いいか)
「ところで、目の怪我どうされたんですか? 差し支えなければでいいんですが」
「これはダイナマイトの爆風で失明したんですよ。もう治ることはないみたいです」
「そうなんですか……」
「ま、賠償金はしっかり頂きましたけどね」
「あはは」
(しっかり者の修吾らしい……)
沙織は同じ社員時代、予約した旅館の部屋が違うとクレームをつけに行った修吾のことを思い出す。昔から、修吾は言うべきことをきっちり言うタイプだった。
修吾がトンネル工事に従事するに至った経緯や、沙織が今働いているバイト先の話、他愛もない話をする中、内容は修吾の恋愛事情に移る。気にはなっていたものの、予想通りずっと恋人はおらず、深雪のことを想っていることを知る。
(やっぱり、修吾は私ではなくお母さんを……)
「じゃあ、加藤さんは今でも深雪さんを愛してらっしゃるのね」
「そうですね。バカみたいだけど、そうなりますね。それに、他の相手と結婚するなんてマネは、罪を侵した俺にはできない。償いとまではいかないまでも、俺はずっと一人で生きて行くつもりです」
(ホント、直美さん言う通り馬鹿だ……)
「あ、すいません。こんなしみったれた話。気分悪くされました?」
「いえ、加藤さんの熱い想い。素敵です」
「ははっ、おっさんの戯言ですよ」
「ご謙遜を。そろそろ日が陰ってきましたし、病室までお送りしますね」
「これはどうも。お願いします」
(私はどうすれば、ううん、どうしたいのだろう。このまま帰れば修吾は必ず近いうち自殺する。それだけは絶対避けなきゃいけない……)
沙織は覚悟を決めて中庭の中心にある噴水の前で止まる。
「どうかされましたか?」
「私、今日東京に帰る予定なんです」
「そうですか。残念ですね、もっといろんな話がしてみたかったです」
「最後に、一つお聞きしても宜しいでしょうか?」
「なんなりと」
「今日のお昼、なんで自殺しようとしたんですか?」
沈黙する修吾に沙織は話を続ける。
「加藤さんはさっき、生きることが償いといいました。あれは嘘ですか? 本当は、辛いんでしょ?一人ぼっち……」
「さっきも言ったけど、俺は罪を侵した人間です。たくさんの人を傷つけた。寂しさも償いの一つです……」
(修吾、そんな悲しいこと言わないで……)
「なら、自殺なんかせず、生きて苦しんで償って。自殺なんて、そんな悲しいこと、しないで!」
(修吾を救うにはこれしか思い付かない。ごめんなさい、お母さん、修吾)
「ナナミさん?」
「私はナナミじゃないよ。まだ分からない? 私の声、忘れた?」
「み、深雪さん?」
「気付くの遅い。私が帰るっていう最後の最後までとうとう気付かないなんて」
「な、なんで深雪さんがここに?」
「婦長が同級生。薫から聞いてるでしょ?」
「うん……」
「薫が連絡くれたの。修吾さんが入院してるからお見舞いに、って」
「わざわざ俺のために……」
「そう、わざわざ修吾さんのために」
「君の家族に申し訳がない。早く帰ってくれ!」
「いいえ、帰らないわ」
「深雪さん?」
「私はあなたの傍にいる」
「ダメだ! 沙織やお義父さんが……」
「沙織は再婚して幸せになってる。真司さんは、三年前に亡くなったわ……」
「そんな……」
「知ってるとは思うけど、結婚はできないし、子供もできるような身体じゃない。でも、もし修吾さんさえよかったら……」
「でも、俺はこんな身体だし、深雪さんを守っていけない……」
「さっき言ったじゃない、生きて償うって。だったら、私の傍で苦しんで悩んで、そして、幸せにして……」
「深雪さん!」
車椅子椅子から立ち上がると修吾は背後に立つ沙織を強く抱きしめる。
「修吾……」
「俺、君にずっと言いたかった言葉があるんだ……」
「私も……」
「愛してるよ、深雪」
(ごめんなさい、お母さん……)
「私も愛してる、修吾」
(ごめんなさい、修吾……)
久しぶりに感じる修吾の体温と唇に沙織は嬉しくもあるが、罪悪感から胸の奥がズキズキと痛み脈打つのも実感していた。