【第二章】狂気の王と永遠の愛(接吻)を
 助けを求める声に導かれ、アオイは疲れも忘れて一心不乱に走り続けた。この幼い子供のどこにそんな力があったのか? と、驚くほどの体力だ。
 彼女をそうさせたのも、危機感を持たせるには十分なほどに聞こえていた声は、いまにも途切れてしまいそうに弱々しかったからだ。

 アレスやカイと訪れる清らかな小川を越え、せせらぎを背に聞きながら森の深くまで足を踏み入れた。
 色濃くなる野生の匂いと薄れていく日の光。肩を上下させ、声の主がどこにいるのか立ち止まって耳を澄ませてみれば……それは残酷にもアオイのすぐ傍で見つかった。

「……ッ!?」

 浅い草むらの中に折り重なってできた小さな空洞があり、その中にはおびただしい血で脚を染めた真っ白ならラビットが横たわっていたのだ。それが如何に深刻な状況であるかはアオイにもわかる。体から血が流れ出ることは酷い痛みを伴い、決してそのままにしてはいけないと皆に言い聞かせられている。しかも目の前の小さな生き物は、あまりの苦痛に声さえも上げること叶わず衰弱しているように見える。
 アオイはすぐに駆け寄り、ラビットの脚に痛々しく食い込んでいる鋼の歯を力いっぱい開いて脱出させようと試みた。

「……っ!」

 ラビットの血を受けてぬらぬらと光る鋭い歯はアオイの柔らかな手を幾度となく傷つけ、もうどちらの血ともわからぬほどにアオイの手は深紅に染まっていた。

(どうしよう、どうしよう……っ!!)

 キュリオやアレス、カイがいればすぐにこの鋼の歯からラビットを救い出してくれたはずだ。そして傷を癒し、もとの元気な姿に戻してくれる――。
 そして、彼らがいなければ救い出してやることも叶わないとアオイはこのとき自分の非力さを痛感し、自分より小さな命も守れないことを知って涙を流す。

「おとうちゃまっ……カイ、アエス――ッ!!」

 泣き叫びながらも決して手を止めず、自分の声に薄く目を開いた赤い瞳に懸命に呼びかける。

「……っだいじょうぶ、だいじょうぶっ……」

 笑みを向けながら瞬きすれば零れ落ちる優しい涙。
 痛みのなか、小さな少女が自分を助け出そうと懸命になってくれていることをラビットは本能でそれを悟った。そして……その少女の優しさも空しく、意識が遠のいていくのをただ受け入れるしかなかった――。


「……?」


 黒い文字で埋め尽くされた書類に目を向けていたキュリオがふと顔を上げた。

「どうかなされましたかな? キュリオ様」

 訝し気な顔をしている麗しの王に気づいたガーラントも手を止め、立ち上がったと同時に別の人物が庭に現れていた。


「……アオイ姫はどこ?」

「ダルド様! おかえりなさいませ!」

 大量のシーツがたゆたゆ中から顔を覗かせた数人の女官や侍女らは、しきりに姫君の名を呼びながら右往左往している。
 キュリオの依頼により鉱物を探しに出ていたダルドは深い襟首の外套を纏い、手には貴重な鉱物の入った重量級のバッグが握られていた。

「……このあたりにお隠れになっているのは間違いないと思うのですが……」

 アオイも大きくなるにつれ、隠れるのが上手になって彼女らを喜ばせていたが、大勢で手分けして探しても見つからないなど今までになかった。
 そしてここではないどこかへ向かったという目撃もなく、手広く探し始めた彼女らの顔には焦りの色が浮かんでいる。

「…………」

 ダルドの嗅覚と記憶には、アオイのあたたかく甘い香りをしっかり覚えている。
 彼は手にしていたバッグを手放すと、彼女の匂いを辿るように一方を見つめていた。

「あの……ダルド様?」

 神秘的な銀の瞳が険しい眼差しに変わると、みるみる血相を変えた女官が悲鳴にも似た声を上げる。

「……そ、んな……まさか、姫様は森に……?!」

「キュリオに知らせて。僕はアオイ姫を追う」

「は、はいっ!!」

 外套を脱ぎ捨て、タッ! と駆け出したダルドは風よりも速く、女官の目の前の木の葉が舞い落ちる頃にはすで姿はない。
 俄かに騒がしくなった庭には報告を受けたキュリオとガーラントが現れ、数人の従者を引き連れた彼らは足早く森へと向かって行った――。

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