【第二章】狂気の王と永遠の愛(接吻)を
 執務室のバルコニーでは、若葉の香りを含んだ穏やかな風が銀の髪の合間を縫って緩やかに宙を舞う。眼下に広がる美しい街並みと頭上の青は、この国に住む者たちへ安堵感と生きる喜びを与える。

「…………」

 沈黙する横顔さえ類を見ないほどの美しさを誇る悠久の王が見つめるものは、この国以外にあってはないらない……はずだった。
 偉大な先代の王セシエルの教えを忠実に守ってきた現王キュリオ。自身の代になってからというもの、目に余る対立やいざこざはなかったためこの国を離れることはそうそうなかった。しかし、ここ数か月の間に【精霊の国】を訪れ、今度は【雷の国】へ向かおうとしている自分がいる。【精霊の国】を訪れたのはアオイのためとは言え、彼女を失うことに耐えられなかった自分が起こした行動が元と言える。

『――キュリオ、こちらへおいで』

 城からあまり離れていない森の小川の傍を歩いていた年端もいかないキュリオは、水の流れる心地よい音色に混ざる凛とした声に応えた。

『はいっ!』

 揺れる水面の輝きよりも柔らかな光が視線の先の青年を包んでいる。初めて散策へ付き合うことを許されたキュリオの心はいつもより高鳴っており、珍しくもないこの風景でさえ輝いて見えた。
 自身の後ろを遅れて歩いていた少年が追いついてきたことを確認したその青年は、新緑を思わせる若葉色の瞳に含みのある色を浮かべてこちらを振り返った。

『人は大切なものを天秤にかけなくてはならないときがある』

『はい!』
 
 なんの前振りもなく始まったこの言葉にさえ疑問を持つことなく頷いた幼き日のキュリオの全神経は、彼が口にした一字一句を聞き逃すまいと常に張り巡らされていた。
 当時、神童と呼ばれたキュリオが五百年後も憧れ、手本とするこの青年こそ唯一無二の崇高な存在である<先代>悠久の王セシエルである。
 二十代前半と思われる青年は実年齢を感じさせない若さと美しさ、そして並みならぬ風格を兼ね備えており、彼がそこにいるだけで自然と頭を垂れたくなるにも明確な理由があった。それもそのはず、セシエルはこのとき五大国・第一位の王であり、通常の王が達しうる領域を遥かに超えた数少ない人物のひとりであったからだ。

『ご覧。そこに蝶がいる』

 言われて彼の視線を追うと、そこには主不在の蜘蛛の巣に小さな蝶が絡んで足掻く姿があった。

『あ……』

『待ちなさい』

 小走りに駆け寄った少年を静かに制したセシエル。この時のキュリオは蝶を助けない以外の選択肢は頭になく、崇める彼がなにを思案しているのか問おうと真剣な眼差しの若葉色の瞳を見つめると、ようやく先ほどの言葉の意味がわかった気がした。

『お前が一方を選ぶということは、もう一方に悲劇が訪れることを忘れてはいけない』

『……!』

 心の臓がドクンッと音をたてたキュリオが巣を振り返るのと同時に動き出したセシエルは「いまはもう一方が存在していないのだから無効だね」と、しなやかな指先で花弁のように小さな蝶を戒めから開放すると宙へと返す。

『……セシエル様、それは……』

『うん?』

 しばし蝶の行方を見守っていた彼の瞳がこちらへ戻ってくる。
 何気ない日常の風景に見えるが、先ほどの面差しから簡単な質問ではないのだと直感的に感じ取ったキュリオは息を呑んで言葉を紡いだ。

『私がどちらかの命を選ばなくてはならないときが来るということでしょうか……?』

 セシエルは、一を聞いて十以上を理解するキュリオならではの言葉に嬉しく思いながらも、その素振りは一切見せずに少年を直視した。

『……例えば蜘蛛がヴァンパイアで蝶が悠久の民だとしよう。
それならば迷うことはない。お前は蜘蛛がどうなろうと無条件に蝶を救うことだけを考えればいい』

『……はい』

『私たちが選ぶのはこの国の未来だ。それ以上に勝るものはない。いや……、あってはならないことを肝に銘じてほしい――』


「……なぜいまセシエル様のお言葉を思い出す……」

(セシエル様はなにを案じておられたのだ?)

 あの質問の答えはもちろん、キュリオもセシエルと全く同じであるはずだが……なにかひっかかる。
 セシエルが言わんとしていたこと……それは如何なる時も悠久の民と国を優先せよ。これ以外の何ものでもないはずだが、キュリオには“お前が一方を選ぶということは、もう一方に悲劇が訪れることを忘れてはいけない”この部分が強く頭の中に響いた。力あるものが介入することによってバランスが大きく崩れることは前例に珍しくないからだ。

 そして……一番恐れるのは蜘蛛が“大切な人物”であった場合――。

(優先すべきものが蝶であれば選ぶことに迷いはない。
しかし……
善と悪、理屈で片付けられないものがあるとしたら、私はどちらを選ぶのだろう……)

 すると突如、キュリオの羽と戯れていたアオイの視線が不意にせり上がって。

「…………」

「うん?」

 幼子の問いかけるような眼差しに首を傾げたキュリオは、すこし考えて。


「――アオイは私の蝶だ。
羽ばたいて糸に絡まれるくらいなら……この世界から一匹残らず蜘蛛を消してしまおうか――」



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