【第二章】狂気の王と永遠の愛(接吻)を
 故郷へ向うにも関わらず仙水の心はこの世界の空のように酷く荒れている。
 それがどういうものなのかと表現するならば、大和が抱いているような故郷への思い入れとは真逆のものであると言えよう。
 彼が和の国へ足を運ぶのも、そこにある想い出があたたかく心地よいものだからに違いない。しかし、仙水が故郷へ抱いている想いといえば、悲しみの奥深くにある激しい怒りと絶望。さらにそれらを上回るのは故郷の民への底なしの憎悪だった――。

 彼の事情を知るのは、もはや九条だけとなってしまったが、このような話をだれかにするつもりもない仙水はずっと心の奥底に闇を抱え込んでいた。

『時に人は嘘の中に真実を隠す。
人を疑ってはならん。裏切られることはあっても、裏切ってはならんぞ』

(……思い出すだけで酷い頭痛がする……)

 この言葉を口にした人物は仙水とは切っても切れないかつての血縁者だ。
 代々、水守りの一族であった彼らは、かつて水の女神が水浴びをしていたとされる穢れなき水源を守っていた。

『水の女神が水浴びをされていたということは……私たちの先祖はその御姿をご覧になったということですか?』

 もう何百回目だろう。物心がついたころから聞かされている水守り一族の始まりとされる水の女神との出会い。
 この質問を投げかけた青年は、水源をお守りするという役目だけではなく人々の生活が分け隔てなく豊かになるよう、治水や農業の勉学に励む勤勉な若者だった。

『そうとも! それはそれは美しい、長髪のナイスバディな女神だと言い伝えられている!』

『そうなんですね』

 水守り一族の長として、清めの儀式を年に一度執り行うのはこの青年の父親だった。
 その長の一人息子であった彼は、水脈が淀んでいるという村人の知らせを受けて父の弟君である叔父とそこへ向かっている最中である。

 水守りの一族だからといって、女神に会ったとされるのは千年以上も昔の一代目だけだ。
 つまりは水の女神が本当に実在したかはもはや証明する術がなく、もしかしたらただ人々から邪心を無くすために作り上げた偽りの話の可能性さえあるだろうと、その青年は少なからず思っていた。

(――大切な水源を穢されないためには水の女神の話は有効だ。崇高な神がそこに居たとあらば、水源を穢そうと考える邪な者が居なくなる)

 水守りらしからぬこのような考えは道理に反するのかもしれない。だが、言い伝えられる水の女神の話がなくとも、この水源を誰よりも大切に想っている青年の心はとても清らかだった。

 近くに他の水源が見当たらないこの地は、これによって生かされていると言っても過言ではない。豊かな緑が根付けばそこに森ができる。森と水があれば大小さまざまな動植物が生息し、さらにはそれらを糧にした人々の穏やかな生活がそこにはあった。
 清らかな水によって育てられた森や土は清浄な空気と作物を育て、我ら人間に癒しと恵みを与えてくれる。

『お前もそろそろ身を固めてもよい頃ではないか? そう女性に興味がなくてはこの世界の女どもが枕を濡らすことになるぞ!?』

 青年の叔父である彼は、この水色の髪の美しい甥を幼き頃から大層可愛がっては水の女神の話で鼻の下を伸ばしている。
 この地には珍しい水色の髪と瞳。そしてその美貌は水の女神の生まれ変わりと称されるほどに浮世離れしており、水の鼓動を感じることができる不思議な力を宿していたことから、この西の国はかつてない安寧が約束されているだろうと神聖化されるほどの人物となっていた。

『私はまだまだです。父上のもとで村人を救う術を学んでいる最中ですから、所帯をもつことは当分考えておりません』

 その涼し気な笑みは、老若男女問わず見惚れるほどの美しさだ。その美貌があれば巨万の富を得ることも、数多の女を囲うことも容易いだろうが、そんなことには一切興味を示さない。
 そんな彼がなにより大切にしているのは家族だ。優しい母と尊敬する父。自身が築き上げた財のすべてを人々のために投げ出す偉大な父を青年は心から尊敬していた。

『家柄のよい娘との縁談が山のように来ていると聞いているぞ? お前の父や母を安心させてやるには跡取りも必要だろう!』

『……ではこう致しましょう。叔父上が思い描く水の女神よりも美しい方がいらっしゃったら考えてみます』

(叔父上の口は早い。忽(たちまち)ち広がって世間もすこしは大人しくなるだろう……)

 別に美しい女性が好みというわけではないが、叔父が想像する女神を凌ぐ絶世の美女が居るとは思えず、これでしばらくはうるさく言う者もいなくなるだろうという青年の策略だった。

『ところで叔父上、街がすぐ傍まで迫っておりますが……』

 半日以上歩き、日が傾きはじめた頃――
 水脈が滞っているという村はそこになく、視線の先にあるのは高い塀の連なる高貴な館ばかりだ。

『……む? 道を違えたか?』

『いいえ、日が流れるこの方角であっています。手紙に書かれているとおり、森を抜けて日暮れ前に到着する集落というのも間違いではありません』

 今一度、懐から取り出した手紙へ目を通した青年があたりを見回していると――……
 遠くから馬の嘶きが聞こえてくる。蹄の音からして複数だ。

『まさか野生の馬ではないだろう。ちと聞いてみるか』

『……そうですね。もし道を間違っていたのなら近くで馬を借りることも考えましょう』

 馬は人の運搬のほかに貴重な労働力になる。
 青年の父は自身のもつ馬までもを村人のために寄与し、こうして遠くから依頼があれば徒歩で向かう。依頼人には申し訳ないが、一刻を争うほどの危機が迫っていない限り、こうしたスタイルを貫いているのも修行の一環だと皆には理解してもらっていた。そしてなにより、自身の足裏で感じる土の感触で森が正常に機能しているかがわかり、生命の息吹をより身近に感じられる大切な時間だった。

(おかしい……
ここまでの道のりで変わったことは何一つなかった。この先に何かあるとすれば……水が淀んでいるのは人為的な問題だろうか……)

 いままでない違和感が青年の胸をざわつかせた――。


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