【第二章】狂気の王と永遠の愛(接吻)を
『……、…………』

 人の気配を近くに感じた青年は薄く目を開いた。

『気づいたか!! おい、皆の者! 目を覚ましたぞ!』

 嬉しそうな叔父の声が皆を呼ぶ。

『……? ここは……』

 上体を起こそうとした青年は痛む頭部と若干のめまいに再び脱力し、力なく目を閉じてしまった。

『――母ですよ。聞こえますか?』

 ひんやりと気持ちの良い手が青年の頬を優しく撫でる。

『……母上……? ……母上っ!!』

 ガバッと起き上がった青年は自身の手に触れる手を掴みながら、その人物を強く引き寄せる。
 しなやかな髪がサラリと指先に絡み、肩越しにクスクスと笑う優し気な声の主は青年に面差しのよく似た美しい女性だ。

『どうしたのです? 怖い夢でも見ましたか?』

 幼い頃にそうしてくれたように、穏やかな手が何度も背を撫でてくれる。

『どうした我が息子よ! まるで子供返りしたような甘えっぷりだな!!』

 幾つになっても子供というのは、母の胸に抱かれればたちまち子供返りしてしまうものだと青年は痛感させられる。これほどまでに心を穏やかにしてくれる人物が他にいるだろうか? 無条件に自分を愛し、一番の理解者である母。清らかな愛を持つ彼女こそ水の女神の化身に相応しいと青年はいつの日も思っている。

『……父上……』
 
 視線の先に見える偉大な父の姿。込み上げる涙を堪えるのが精一杯だ。

『西の街で酒に酔って階段から落ちたと聞いたぞ? お前らしくもないが、無事問題も解決したようで領主殿から褒美が届いている!』

『……え?』

 気を失ってしまったらしい青年は、昼前に副当主の叔父と馬車で送られてここへ戻ってきたのだという。

 霞のかかる頭の中で酒に酔って階段から落ちた記憶の欠片などどこにもない。
 普段からあまり酒類を好まぬ自分が依頼先で口にすることなどありえるのだろうか? 納得のいかないこの状況を誰に尋ねればよいのだろう?

 青年はその夜、妙な違和感を抱えながら療養中の身をひとり寝台に横たえていた。

――コツン、コツン……

『……?』

 窓の外で小さな物音と言うよりも、なにかがガラスにぶつかっている音が間近から聞こえて上体を起こす。
 窓辺に立った青年が窓の外を覗くと……

『あれは……』

 狩猟の男だった。なぜここがわかったのかなど、青年にはもはやどうでもよいことだった。痛む体を引きずり急いで館の裏手へ向かう。

『水守り様っ! よかった、よくぞご無事でっっ!!』
 
 水の衣を纏ったような美しい青年が浮かない顔で近づいてきて、自分の顔を見るなり声を潜めて言葉を紡ぐ。
 
『……一体なにがあったのです? 私はなぜここに……』

 あの夜、やはり話がしたくて青年を追いかけてきていたという男。
 その後の薬師の館で見た光景に驚愕し、助けるチャンスを伺って敷地内へと潜んでいたところ……翌朝になって水守り様のお陰で水源が浄化されたと領主から発表があり、皆喜び沸いていつも通りの生活に戻ったのだという。

『それでも……あのような光景を見た自分は水守り様の無事が確認できない限り信用できないと、……追いかけてきた次第であります』

 しかも、薬師のいた小屋に現れた壮年の男は初めてみる顔で、あれは領主ではないと男はいう。数年前に見た領主はもっと小太りの……武人とは名ばかりの人の好さそうな中年の男で、領主が交代したという知らせもないため別人が成り代わっている可能性を示唆した。
 
『……あれが、領主ではない……?』

 荘厳な声で語りかけてきたあの男の指が自身の唇を撫でる感触にゾクリとした感覚がよみがえる。
 
『……っ!』

 ――そうか。そなたがそこまで言うのなら仕方あるまい。明日の朝、この薬を流すしかないな――。

 ハッとした青年の背筋を冷や汗が滝のように流れ出る。

『いけませんっ! すぐに街へ戻りましょう!』

 月明かりを頼みの綱として馬を出したふたりは疾風の如く大急ぎで街へもどる。神経を研ぎ澄ました青年の駆る馬はとても速く、その後ろをついていく男は見失わないよう馬を走らせるのに精いっぱいだ。
 いくら真夜中と言えど、生活の灯りがまったく見えてこないことに嫌な胸騒ぎがする。

(間に合ってくれ――!) 

 だが、青年の祈りも空しく、路上で倒れて泡を吹いている幾人もの街人たちの姿がそこにはあった――。
 
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