【第二章】狂気の王と永遠の愛(接吻)を
未踏の地の出土品Ⅱ
この時のアオイにはキュリオの言ってることはまだ理解できず、なにをされたかもわかっていない。それでもまるで父親が自分の中に入り込んでいるような……目の前にいるよりももっと近くに感じることは確かだった。
でも今のアオイは目の前にいる優しい父のぬくもりがただ恋しくて、今日という日を離れて過ごさなければいけないとわかったアオイは悲しそうに口を噤んでしまう。
だが、皆にとって父が特別な存在であることをなんとなく理解しているアオイは決して我儘を言ったりしない。
「アオイ?」
「……」
名を呼んでも視線を合わせようとしないとき、アオイは本音を隠している。
俯いている彼女の長い睫毛に水滴が光り、キュリオが指先で拭った感触に釣られて視線が戻ってくる。
ようやく濡れた瞳が絡むと、囁くようにキュリオは優しく語りかける。
「私はいつでもお前を想っている。どんなに離れていても必ずアオイのもとへ帰ると約束しよう」
「……」
言葉はなく、こちらを見つめるアオイの表情はまだ優れない。
優しく抱き寄せると素直に身を任せてきたアオイへ自身のぬくもりを残すように腕の中に包み込む。
(親の愛が必要であろうこの時期にアオイの傍を離れるのは……やはり堪えるな)
彼女の悲しそうな瞳を目にしたらキュリオは手を伸ばさずには居られない。この腕の中へ閉じ込めて、すべての悲しみや不安から全力で守り、愛で満たしたい。
まだ早朝の暗い時間にも関わらず、目を覚ましてしまったアオイを腕に抱きながら着替えを済ませたキュリオは広間を目指した。
この日のキュリオはいつもの食事の席につくことはなく、銀縁のソファへと腰掛けいつまでも愛娘を抱きしめ語り合っていた。
いつにも増して離れたがらないふたりに食事の準備をしていた女官や侍女らは最初は微笑んでその様子を見守っていたが、声をかけても席を移動する気配のない王を気遣った女官が気を利かせて行動へ移った。
「失礼いたしますキュリオ様。朝食はこちらへお運びいたしましょうか?」
「そうだな。そうしてもらおうか」
座ったまま"高い高い"をしているキュリオは視線をアオイから外すことなくそう答えると、手足をバタつかせて喜んでいる愛娘を眩しそうに見上げている。
出掛けるまでのわずかな時間さえも愛娘と離れたくないと寄り添う王の御心は誰もが理解できた。キュリオの姿が見えないときのアオイの寂しそうな顔をも知っている王の側近たちは、その花が咲いたような愛くるしい笑顔が陰る時間が少しでも短ければ……と、ふたりの時間ができるだけ長く続くようにと精一杯努めている。
「かしこまりました。直ちにお運びいたしますわ」
直後に運ばれて来たキュリオとアオイの食事。目の前に並べられた銀の皿に美しく盛り付けられた芸術品にキュリオはほとんど手を付けず、アオイにと用意された幼児用の食事を彼女の口元へ運んでいる。
「アオイは柑橘系のジャムがお気に入りのようだね」
大人用のものよりも柔らかく、しっとりとしたパンを小さく千切った先に載せられた橙色の甘いジャムをアオイは喜んで食べた。食の細い彼女だったが、キュリオから直接与えられるものは拒むことなく受け入れることが多い。その中からアオイが好むものを見つけていくわけだが、この城において幼い姫君の好みをもっとも理解しているのは他ならぬキュリオだった。
「ふぉっふぉ。儂らの姫君はまた大きくなられましたなぁ!」
穏やかな笑い声と共に姿を現した<大魔導師>ガーラント。すでに食事を済ませたと思われる彼はいつでも出掛けられるような恰好で広間へとやってきた。
「おはようガーラント。ああ、最近のアオイは食事の好みもはっきりしてきてね。偏りがあってはならないと思いながらも、この顔を見てしまうと好きなものばかり与えてしまう私がいる」
アオイの口の端についたジャムを指先で拭いながら、それをチロリと舐めるキュリオはすっかり父親が板についている。
「……してキュリオ様、御自身の食事はまったく進んでおらぬようですが――」
娘ばかりを構っているキュリオの身を案じたガーラントだが、本人はまったく気にしていない様子でこう答えた。
「私は問題ない。……が、そろそろ時間か」
我に返ったように目を閉じたキュリオは甘いひと時に別れを告げるようにアオイを抱いて立ち上がり、扉へと向かって歩き出した。
その動きを目にした女官がキュリオの上着を手にし、侍女らを引き連れて後ろをついてくる。
まだまだ灯りがなければ暗闇で足元が覚束ない早朝にも関わらず、目が覚めるような元気な声が響いた。
「キュリオ様! アオイ姫様!!」
バタバタと足音が聞こえ小さな<見習い剣士>と<魔導師>のふたりが息を弾ませて姿を現した。
「やあ、ふたりとも。今日もアオイをお願いできるかい?」
振り返ったキュリオはアレスとカイへ歩み寄りながらいつものように語り掛ける。
「もちろんですっ! お気をつけていってらっしゃいませ!」
カイは早々にアオイを抱かせてもらおうと手を伸ばしたが、後ろから進み出た女官がやんわりとそれを制した。
「お部屋に着くまで私が姫様をお預かりいたします」
アオイは誰に抱かれようともぐずるような子ではないが、まだ小さなカイがバランスを崩して大事な姫君を落としてしまったらそれこそ大変だ。それを重々承知している女官や侍女らは、まだ小さな教育係兼世話係にすべてを任せることはしない。あくまでサポートという形をとりながらも万全を期しているのだ。
「ああ、よろしく頼む。カイもアレスもアオイを頼んだよ」
今一度アオイのこめかみへ唇を押し当てたキュリオはアオイのぬくもりを自身の体に刻み付けるように強く抱きしめ、彼女の体を女官へと預ける。
「アオイ、またあとで」
キュリオの指先が離れる瞬間、真っ白な小さな手がそれを追いかけた。
「……!」
目を丸くしたキュリオは少し悲しそうに微笑みながらアオイの手を優しく包み込むと、今度こそそれは戻ることなく遠ざかっていく。
離れたぬくもりを握りしめるようにアオイは俯いて拳を抱きながら女官の胸元に顔を伏せる。
「……姫様……」
親が恋しいこの時期に離れねばならないふたりの境遇が更なる拍車をかけ、寂しそうな姫君の様子を見ていた女官や侍女らの目頭が熱くなる。
「キュリオ様がお戻りになるまで私たち皆、姫様のお傍におりますわっ」
あたたかな笑顔がアオイを包み、彼女の笑みを取り戻そうとたくさんの女官や侍女らが集い、あっという間に人だかりができた。
「いってらっしゃいませ! キュリオ様、ガーラント様!」
多くの瞳が王と大魔導師を見送るなか、巨大な城の扉がゆっくり開く。
キュリオの視界に広がった城の外の景色の中に供として付き添う剣士や魔導師、……少し離れた場所に白銀の青年が立っていた。
「キュリオとガーラントの留守は僕が守る」
扉が開くなり歩み寄ってきたダルドは、アオイと出会ってから随分目元が凛々しくなった。いままでの守られていた小さなダルドから、守りたい存在を見つけた立派な男に成長したと言えよう。
親友でありながら彼を良く知る者として嬉しく思うキュリオは小さく頷いてダルドを見つめた。
「ありがとうダルド。君がそう言ってくれるととても心強い」
聖獣には人知を超えた不思議な力がある。遥か昔からこの悠久に生存し、聖なる存在として崇められ人の干渉を受けず生きてきた彼らの実態には多くの謎があった。温和で慈悲深いイメージである彼らだが、その内に秘める能力とは如何なるものか?
だが、もしそのような力があろうとも、ダルドは特に戦いに身を投じるべきではないとキュリオは思っている。
この悠久にはキュリオを始めとした戦いに長けた力を持つ者たちが存在しており、彼らは戦いに慣れている。それらのほとんどはヴァンパイアが相手であることがほとんどだが、ヴァンパイアの王が本気で攻めてこない限り、手に負えない状況にはならないだろうと考えている。ならばひとりでも多くの民が戦いに加わることなく過ごして欲しいというのがキュリオの本音である。
「そろそろ行こうか」
なるべく小規模に抑えた馬車が並び、先頭を行く銀細工の施された白い馬車へキュリオとガーラントが乗り込む。
ワインレッドのビロード生地の内側へクッション性に優れた材質を敷き詰めた豪華な馬車は、長い時間移動するにも苦にならないほどに快適な造りになっている。
そしてこの時分に出発するのも、目指す場所が遠いせいもあるが、あまり人目に付かないようにとの考えもある。大きな祭典などで稀に姿を現す王が地を行くとあらば、民が一目見ようと道中に群がってしまうかもしれない。そうなってしまえば、移動時間の大幅なロスになり兼ねなく、執務に大きな支障がでてしまうからだ。
――規則正しい馬の蹄がリズムを刻み、馬車が掲げる灯りが行く先を照らす。
空には闇の中でこそ輝く数多の星々の煌めきが夜を惜しむように瞬き、地にはまだ静寂に包まれた安らかなひと時がゆったりと流れていた。
それぞれ馬車の中から灯りは漏れていないものの窓には分厚いカーテンが下げられ、馬車内では控えめな灯りが彼らの手元を照らす。ページを捲るしなやかな指先と、時折長い髪をかき上げる青年の仕草が高貴な絵画さながらに美しい。向かい合って座るこの世界の重鎮ふたりは古びた書物を手に、この長い道中さえも情報収集の貴重な時間として休息をとることなく過ごしていた。
残されているどの王の記録にも、<先代>や<次代>の王について語られているものは少なくない。キュリオとセシエルがそうであったように、<次代>の王と<先代>の王は同じ城で数年の時を共に過ごしていることがほとんどなのだ。
つまり一度の発掘で当時の王の記録が見つかればその前後の王の話が垣間見れることもあり、空白の時代が大きく開ける可能性がある。
「…………」
(激動の時代を生きた王たちの苦労は言うまでもない。歴史を紐解くということは、悲惨な時代を目にするということか……)
キュリオがそう思うのも、空白の時代はやはり創世期と言われる悠久の国の始まりから数千年に渡る王たちのものだからだ。拠点が移動していると思われるのも、少しでもヴァンパイアから身を隠そうと安全な地を探してのことだろう。
(……遥か昔の王たちの住まう拠点が平地に少ないのも恐らくそれが理由……)
翼をもつヴァンパイアは上空から人の姿を確認するため、身を隠す木々や岩がなければ簡単に見つかってしまう。そして身を隠すのに最適な場所を見つけたとしても、奴等に知られてしまえば大勢の人間が死ぬことになる。
(この静かな闇が遥か昔の悠久の民には恐ろしくて仕方がなかっただろうな……)
頬杖をついたまま間近にある灯火を見つめたキュリオ。
ヴァンパイアの弱点は日の光であり、火ではない。夜に火を起こせば奴等が煙を見逃すはずもなく、すぐに居場所がバレてしまう。
眉間に皺を寄せたキュリオは心を痛めながら当時の人々を想う。
(……息を殺し、暗闇の中で震えながら朝を待つ恐怖は如何ばかりか……)
でも今のアオイは目の前にいる優しい父のぬくもりがただ恋しくて、今日という日を離れて過ごさなければいけないとわかったアオイは悲しそうに口を噤んでしまう。
だが、皆にとって父が特別な存在であることをなんとなく理解しているアオイは決して我儘を言ったりしない。
「アオイ?」
「……」
名を呼んでも視線を合わせようとしないとき、アオイは本音を隠している。
俯いている彼女の長い睫毛に水滴が光り、キュリオが指先で拭った感触に釣られて視線が戻ってくる。
ようやく濡れた瞳が絡むと、囁くようにキュリオは優しく語りかける。
「私はいつでもお前を想っている。どんなに離れていても必ずアオイのもとへ帰ると約束しよう」
「……」
言葉はなく、こちらを見つめるアオイの表情はまだ優れない。
優しく抱き寄せると素直に身を任せてきたアオイへ自身のぬくもりを残すように腕の中に包み込む。
(親の愛が必要であろうこの時期にアオイの傍を離れるのは……やはり堪えるな)
彼女の悲しそうな瞳を目にしたらキュリオは手を伸ばさずには居られない。この腕の中へ閉じ込めて、すべての悲しみや不安から全力で守り、愛で満たしたい。
まだ早朝の暗い時間にも関わらず、目を覚ましてしまったアオイを腕に抱きながら着替えを済ませたキュリオは広間を目指した。
この日のキュリオはいつもの食事の席につくことはなく、銀縁のソファへと腰掛けいつまでも愛娘を抱きしめ語り合っていた。
いつにも増して離れたがらないふたりに食事の準備をしていた女官や侍女らは最初は微笑んでその様子を見守っていたが、声をかけても席を移動する気配のない王を気遣った女官が気を利かせて行動へ移った。
「失礼いたしますキュリオ様。朝食はこちらへお運びいたしましょうか?」
「そうだな。そうしてもらおうか」
座ったまま"高い高い"をしているキュリオは視線をアオイから外すことなくそう答えると、手足をバタつかせて喜んでいる愛娘を眩しそうに見上げている。
出掛けるまでのわずかな時間さえも愛娘と離れたくないと寄り添う王の御心は誰もが理解できた。キュリオの姿が見えないときのアオイの寂しそうな顔をも知っている王の側近たちは、その花が咲いたような愛くるしい笑顔が陰る時間が少しでも短ければ……と、ふたりの時間ができるだけ長く続くようにと精一杯努めている。
「かしこまりました。直ちにお運びいたしますわ」
直後に運ばれて来たキュリオとアオイの食事。目の前に並べられた銀の皿に美しく盛り付けられた芸術品にキュリオはほとんど手を付けず、アオイにと用意された幼児用の食事を彼女の口元へ運んでいる。
「アオイは柑橘系のジャムがお気に入りのようだね」
大人用のものよりも柔らかく、しっとりとしたパンを小さく千切った先に載せられた橙色の甘いジャムをアオイは喜んで食べた。食の細い彼女だったが、キュリオから直接与えられるものは拒むことなく受け入れることが多い。その中からアオイが好むものを見つけていくわけだが、この城において幼い姫君の好みをもっとも理解しているのは他ならぬキュリオだった。
「ふぉっふぉ。儂らの姫君はまた大きくなられましたなぁ!」
穏やかな笑い声と共に姿を現した<大魔導師>ガーラント。すでに食事を済ませたと思われる彼はいつでも出掛けられるような恰好で広間へとやってきた。
「おはようガーラント。ああ、最近のアオイは食事の好みもはっきりしてきてね。偏りがあってはならないと思いながらも、この顔を見てしまうと好きなものばかり与えてしまう私がいる」
アオイの口の端についたジャムを指先で拭いながら、それをチロリと舐めるキュリオはすっかり父親が板についている。
「……してキュリオ様、御自身の食事はまったく進んでおらぬようですが――」
娘ばかりを構っているキュリオの身を案じたガーラントだが、本人はまったく気にしていない様子でこう答えた。
「私は問題ない。……が、そろそろ時間か」
我に返ったように目を閉じたキュリオは甘いひと時に別れを告げるようにアオイを抱いて立ち上がり、扉へと向かって歩き出した。
その動きを目にした女官がキュリオの上着を手にし、侍女らを引き連れて後ろをついてくる。
まだまだ灯りがなければ暗闇で足元が覚束ない早朝にも関わらず、目が覚めるような元気な声が響いた。
「キュリオ様! アオイ姫様!!」
バタバタと足音が聞こえ小さな<見習い剣士>と<魔導師>のふたりが息を弾ませて姿を現した。
「やあ、ふたりとも。今日もアオイをお願いできるかい?」
振り返ったキュリオはアレスとカイへ歩み寄りながらいつものように語り掛ける。
「もちろんですっ! お気をつけていってらっしゃいませ!」
カイは早々にアオイを抱かせてもらおうと手を伸ばしたが、後ろから進み出た女官がやんわりとそれを制した。
「お部屋に着くまで私が姫様をお預かりいたします」
アオイは誰に抱かれようともぐずるような子ではないが、まだ小さなカイがバランスを崩して大事な姫君を落としてしまったらそれこそ大変だ。それを重々承知している女官や侍女らは、まだ小さな教育係兼世話係にすべてを任せることはしない。あくまでサポートという形をとりながらも万全を期しているのだ。
「ああ、よろしく頼む。カイもアレスもアオイを頼んだよ」
今一度アオイのこめかみへ唇を押し当てたキュリオはアオイのぬくもりを自身の体に刻み付けるように強く抱きしめ、彼女の体を女官へと預ける。
「アオイ、またあとで」
キュリオの指先が離れる瞬間、真っ白な小さな手がそれを追いかけた。
「……!」
目を丸くしたキュリオは少し悲しそうに微笑みながらアオイの手を優しく包み込むと、今度こそそれは戻ることなく遠ざかっていく。
離れたぬくもりを握りしめるようにアオイは俯いて拳を抱きながら女官の胸元に顔を伏せる。
「……姫様……」
親が恋しいこの時期に離れねばならないふたりの境遇が更なる拍車をかけ、寂しそうな姫君の様子を見ていた女官や侍女らの目頭が熱くなる。
「キュリオ様がお戻りになるまで私たち皆、姫様のお傍におりますわっ」
あたたかな笑顔がアオイを包み、彼女の笑みを取り戻そうとたくさんの女官や侍女らが集い、あっという間に人だかりができた。
「いってらっしゃいませ! キュリオ様、ガーラント様!」
多くの瞳が王と大魔導師を見送るなか、巨大な城の扉がゆっくり開く。
キュリオの視界に広がった城の外の景色の中に供として付き添う剣士や魔導師、……少し離れた場所に白銀の青年が立っていた。
「キュリオとガーラントの留守は僕が守る」
扉が開くなり歩み寄ってきたダルドは、アオイと出会ってから随分目元が凛々しくなった。いままでの守られていた小さなダルドから、守りたい存在を見つけた立派な男に成長したと言えよう。
親友でありながら彼を良く知る者として嬉しく思うキュリオは小さく頷いてダルドを見つめた。
「ありがとうダルド。君がそう言ってくれるととても心強い」
聖獣には人知を超えた不思議な力がある。遥か昔からこの悠久に生存し、聖なる存在として崇められ人の干渉を受けず生きてきた彼らの実態には多くの謎があった。温和で慈悲深いイメージである彼らだが、その内に秘める能力とは如何なるものか?
だが、もしそのような力があろうとも、ダルドは特に戦いに身を投じるべきではないとキュリオは思っている。
この悠久にはキュリオを始めとした戦いに長けた力を持つ者たちが存在しており、彼らは戦いに慣れている。それらのほとんどはヴァンパイアが相手であることがほとんどだが、ヴァンパイアの王が本気で攻めてこない限り、手に負えない状況にはならないだろうと考えている。ならばひとりでも多くの民が戦いに加わることなく過ごして欲しいというのがキュリオの本音である。
「そろそろ行こうか」
なるべく小規模に抑えた馬車が並び、先頭を行く銀細工の施された白い馬車へキュリオとガーラントが乗り込む。
ワインレッドのビロード生地の内側へクッション性に優れた材質を敷き詰めた豪華な馬車は、長い時間移動するにも苦にならないほどに快適な造りになっている。
そしてこの時分に出発するのも、目指す場所が遠いせいもあるが、あまり人目に付かないようにとの考えもある。大きな祭典などで稀に姿を現す王が地を行くとあらば、民が一目見ようと道中に群がってしまうかもしれない。そうなってしまえば、移動時間の大幅なロスになり兼ねなく、執務に大きな支障がでてしまうからだ。
――規則正しい馬の蹄がリズムを刻み、馬車が掲げる灯りが行く先を照らす。
空には闇の中でこそ輝く数多の星々の煌めきが夜を惜しむように瞬き、地にはまだ静寂に包まれた安らかなひと時がゆったりと流れていた。
それぞれ馬車の中から灯りは漏れていないものの窓には分厚いカーテンが下げられ、馬車内では控えめな灯りが彼らの手元を照らす。ページを捲るしなやかな指先と、時折長い髪をかき上げる青年の仕草が高貴な絵画さながらに美しい。向かい合って座るこの世界の重鎮ふたりは古びた書物を手に、この長い道中さえも情報収集の貴重な時間として休息をとることなく過ごしていた。
残されているどの王の記録にも、<先代>や<次代>の王について語られているものは少なくない。キュリオとセシエルがそうであったように、<次代>の王と<先代>の王は同じ城で数年の時を共に過ごしていることがほとんどなのだ。
つまり一度の発掘で当時の王の記録が見つかればその前後の王の話が垣間見れることもあり、空白の時代が大きく開ける可能性がある。
「…………」
(激動の時代を生きた王たちの苦労は言うまでもない。歴史を紐解くということは、悲惨な時代を目にするということか……)
キュリオがそう思うのも、空白の時代はやはり創世期と言われる悠久の国の始まりから数千年に渡る王たちのものだからだ。拠点が移動していると思われるのも、少しでもヴァンパイアから身を隠そうと安全な地を探してのことだろう。
(……遥か昔の王たちの住まう拠点が平地に少ないのも恐らくそれが理由……)
翼をもつヴァンパイアは上空から人の姿を確認するため、身を隠す木々や岩がなければ簡単に見つかってしまう。そして身を隠すのに最適な場所を見つけたとしても、奴等に知られてしまえば大勢の人間が死ぬことになる。
(この静かな闇が遥か昔の悠久の民には恐ろしくて仕方がなかっただろうな……)
頬杖をついたまま間近にある灯火を見つめたキュリオ。
ヴァンパイアの弱点は日の光であり、火ではない。夜に火を起こせば奴等が煙を見逃すはずもなく、すぐに居場所がバレてしまう。
眉間に皺を寄せたキュリオは心を痛めながら当時の人々を想う。
(……息を殺し、暗闇の中で震えながら朝を待つ恐怖は如何ばかりか……)