足踏みラバーズ



 ふはっ、と頬を緩ませると痛みが走った。



病院に行って、外科医の先生に鏡を見せてもらうまで、事を認識できていなかった。

動物のひげみたいに三本の線が頬に赤々と居場所を見つけていて、ちょっとした擦り傷や切り傷みたいだと思っていたけど、彼女のジェルネイルで綺麗に硬く固められていた爪が柔い頬を抉って、二針縫う羽目になってしまった。





学生時代、運動部で日々走り回っていたあの頃でさえ、大きな怪我は全治一か月だったけど、松葉づえをつけば歩ける捻挫だったし、レントゲンを撮る以外の治療を受けるなんて思ってもいなかった。



顔の中でも豊かな表情を担う部位の頬。

お医者さんに、動かさないように言われたけれど、こんなに難しいことはなかなかない。普通に暮らしていく上で、動かすな、なんて作り笑いの名人の私には至難の業だ。



「こういうのって、抜糸しないといけないんだね」



 一週間後にまた来てください、と先生に言われて、小さな傷なのに大変だな、と他人事みたいに感じていた。

そんな私の不服そうな顔えお見て、結構傷深いから縫ったんですよ、と苦笑いしていた。

傷が少し残るかもしれません、とガーゼを被せられながら告げられ、おかしな顔になっちゃうな、とまた笑えてしまう。



診察後すぐ縫えるなんてことも知らなくて、初めての小さな手術に怯えて、服が皺くちゃになっていた。








 冬というのは顔の厚着も許してくれる。


始終マスクをつけていても、何も不自然に思われない。

けろっとしている私に、看護師さんが顔の傷は女性はすごく懸念するんですけどね、と教えてくれた。

痛み止めの錠剤まで処方されて意外と大事だな、なんて考えながら病院を後にした。






 こんな日だって変わらず病院は混んでいて、帰る頃には数時間も経ってしまっていた。



「別に家まで一緒に来なくても大丈夫なんだけどねえ」



 タクシーだし、と告げるだけでも顔が痛い。上の指示ですから! と息を巻いて隣に座る中島くんが少しだけ、心強い。





 マンションの近くまで来ると、中島くんまで一緒に降りる準備をしていて、会社戻るんでしょ、と制する。あんなことがあったんだから、部屋の前まで送ります、と言う中島くんが、悩まし気におずおずと聞いてきた。



「……あのっ、高梨さんに連絡、したほうが良くないですか?」




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