オカルト研究会と龍の道

幕間2 姫野栞

 生徒会室へ向かう途中、栞は物思いに沈んでいた。生徒会役員たちはとっくに呼び戻したのだが、当の栞は彼らについて行くことができなかった。腰まで水に浸かっているかのように体が重く、気付けば人気のない廊下を一人で歩いていた。

 先ほどの生徒会室でのやりとりは未だに栞の脳裏に生々しくこびりつき、衰えることのない衝撃は今もなお栞の意識と思考とを奪い取っていた。優馬や生徒会長たちが言うところの「呪い」は栞の目には全く見て取ることができなかった。

 確かに、最近の生徒会長にはどこかおかしいところがあると感じていた。

 けれども生徒会長の外見はいつもどおりで、先ほどの件でさえ優馬たちが悪い冗談を言っているくらいにしか感じられなかった。一方で、栞を除く誰もが呪いが実在することを前提に話を進めていた。おかげで殆ど蚊帳の外だった栞にも、どうやら冗談ではないということだけはおぼろげながらも感じることができたのだ。

 生徒会長の異変に気づきながらも、どうすることもできないまま栞は一人悩み続けていた。しかしまさか呪われていたなどとは、到底予想できることではなかった。

 生徒会長の苦しみの大きさなど、栞には分からない。けれども分からないなりに支えたい。強く願う一方で、生徒会長と自分とのあいだに見えない壁があることもよく分かっていた。壁の正体があの呪いなのだとしたら……。

 栞は歩き続けることができずに立ち止まり、廊下の壁に半身を預けた。自分にはどうすることもできない巨大な何かに押しつぶされてしまいそうだった。すぐ目の前の突き当たりを曲がればあとはもう生徒会室まで一直線というところまで来ているのに、残りの距離を詰められない。
 
 それでも何とか身を起こし、辛うじて足を踏み出す。けれども前に進むのが精いっぱいで、反対方向から生徒が来るのに気づけなかった。ちょうど角のあたりで出合い頭にぶつかった時には、それなりの勢いが付いてしまっていた。

「きゃっ! ご、ごめんなさ……何よ」

 咄嗟のことではあったが、栞は素早く状況を把握し、深々と頭を下げようとした。けれども相手の顔が自分のよく見知ったものであることに気付くと、一オクターブ低い声でけん制しながらすり足で退き距離を取った。

 栞の前には、一メートルほどの距離を挟んで七瀬がいた。

「人にぶつかっておいて何よとはご挨拶ね」

「失礼ね。ぶつかってきたのはそっちじゃない。変な言いがかりは止めてもらえないからしら」

「はぁ? たった今ここで頭下げようとしてたじゃない」

「社会通念上の常識的な判断よ。そんなことも分からないあなたに振り回されるなんて、優君かわいそう」

「優馬は関係ないでしょ!」

「さあ、どうかしらね。そんなことより、私はあなたと違って忙しいの。それじゃ私、生徒会室に戻るから」

「待ちなさいよ」

 すぐ脇を通り抜けようとした栞の肩を、七瀬の手ががっちりと掴んでいた。

「……何のつもり?」

 栞は湿度のある細い目つきで七瀬を睨んだ。

「こっちのセリフよ。さっきのあれは何のつもり?」

 けれどもこの程度の敵意で怯む七瀬ではなかった。倍返しとばかりに容赦のない声が
浴びせられる。

 ──生徒会室での話をぶり返そうってわけね。

 精神的に手負いの栞ではあったが、気持ちを切り替えるまでに時間はかからなかった。

 次期生徒会長を期待される身としての自負が、ただ一方的にやられたままでいることを許さなかった。加えて、積年の思いもあった。栞は改めて七瀬へと向き直り、いっそ壮絶とも言えるような笑みで対峙した。

「へぇ、わざわざぶり返すんだ。滝上会長の前だから遠慮してあげたのに。でも伝わらなかったみたいね」

「何その、かわい子ぶった言い方! あなたには似合わないのよ」

 七瀬が大げさなブリっ子の身振りで言い返すと、栞の顔に紅く血が上った。
早くも二人の喧嘩は女同士による罵り合いの体を見せ始めていた。互いに整った顔立ちなだけに、修羅場としか言いようがない様相を呈している。

「黙りなさいよ。あなただって優君を散々おもちゃにしてるくせに!」

「はぁ? いつ私が優馬をおもちゃにしたって言うのよ?」

 売り言葉に買い言葉。加速度を付けながら互いのボルテージが上がっていく。

「まさか本気で分からないとでも言うつもり? 冗談もほどほどにしといて欲しいわね」

「何よその言い方。言いたいことあるならはっきり言いなさいよ!」

「あぁそう。じゃあ教えてあげる」

 栞は挑戦的に顎を上げ、ふふんと鼻で笑うと一気に言いきった。

「優君のこと散々振り回して、自分の思い通りにして、それでいて本心だけは隠したまま何にも伝えないなんて、ホント何様のつもり?」

 息を吸いながら一瞬だけ苦しげに表情を歪め、

「ホントは優君のことが好きなくせに」

 感情を抑え精いっぱいに低い声でそう締めくくった。

「なに? もしかして嫉妬? 見苦しいわね」

「勝手に言ってなさいよ。誰があなたなんかに。別に優君のことなんて好きでも何でもないんだから」

「ふぅん? 小学校の時あんたが好きだったの、誰だったかなあ?」

「そ、それは……そういうこと言うんだったらあなただって同じでしょ! 優君が淵から飛び込んで気を失ったあの時、誰よりも優君の近くにいたのはあなただったじゃない! 後からすぐに飛び込んで、溺れかけた優君を岸まで上げたのはあなただったじゃない!」

 目尻に涙を浮かべ、顔を真っ赤に紅潮させた栞がまくし立てると、ほんの僅かなあいだではあったが、七瀬はぐ、と押し黙った。

「あの時はたまたま……そう、たまたま一緒に崖に上がっただけよ」

「そうかしら。優君が飛びこむ前のあなたはやけに楽しそうに見えたけど? 飛び込めない優君をはやし立てたいっていう下衆な魂胆が下にいた私にも見え見えでうんざりだったわ」

 人気のない廊下に栞の声が響き、張りつめた空気を震わせ消えて行く。

「ところが優君はあなたの予想を超えていた。あなたは馬鹿にしてたはずの優君が自分にできなかったことをやって見せたものだから逆に優君のことが気になった。けど素直に態度で示すのは嫌だったのよね。あなた、図太いようでいて本当は誰よりも臆病だもの。だから散々優君を連れ回して独占して、自分の思い通りにした。自分だけじゃ都合悪いからってわざわざ私を出汁にして。そうやって好き放題やった挙句私たちの前からいなくなってくれたじゃない。何の前触れもなく突然に」

「ちがっ……私、そんなつもりは」

 言葉を詰まらせる七瀬を尻目に、栞は肩で荒く呼吸を繰り返しながら、乱れた呼吸を整える。

「後になってから知ったけど、あなた優君に名前も名乗らないままだったらしいじゃない。随分ご丁寧なことね。けど確かに『名前も知らないままいなくなった女の子』のインパクトは絶大だったわ。おかげで優君はずっと忘れられずにいたのよ。名前すら知らされなかったあなたのことを!」

 七瀬は幼なじみが見せる未だかつてないほどの剣幕に反撃の糸口すら見つけられないままひたすら圧倒されていた。

「ねえ分かる? 私はずっと見させられたのよ。あなたのことをいつまでも忘れられずにいる優君を。どれだけ近くにいたって、私のことなんてちっとも見てもらえないのよ?
 もう誰もいなくなった場所にスポットライトが当たるだけで、すぐ隣にいる私にはいつまで経ってもライトが当たらないのよ? 
 そんなの耐えられるわけがないじゃない! 
 私がどれだけ辛い思いをしたかなんて、そのあいだずっといなかったあなたになんて分かるはずない。
 あなたのせいよ。あなたのせいで私は大事なものをずっとずっと奪われ続けた。この高校に進学して生徒会に入って、滝上会長に出会うことができた。ようやく解放されたと思ったわ。やっと自分の心の置き処を見つけられた気がした。嬉しかった。これから少しずつ取り戻していけばいい。そういう前向きな気持ちにだってなれた。優君ともようやく話せるようになれた。
 なのに何で今更私の前に現れたのよ! 
 これ以上私のことを苦しめないで!」
 
 自分でも気づけないうちに栞は泣いていた。両手の拳を硬く握りしめたまま滂沱の涙を拭うこともせず、時折しゃくりあげながらただ七瀬の目の前に立ち続けていた。絶えることなく溢れる涙は顎まで伝い、ぽたりぽたりと滴り落ちる。

「ごめんなさい」

七瀬は謝罪の言葉を口にするだけで精いっぱいで、顔を上げることすら叶わない。

「ごめんなさいですって? 今更ごめんなさいの一言で済まされるとでもと思うわけ? ふざけないで! 自分だけ好きなだけ楽しんで、私のことずたずたにして。ごめんなさいの一言で許されるわけないじゃない!」

 栞の追及には容赦がなかった。十年近くをかけて募らせ、澱んだ想いはなおも激しい言葉となって七瀬の身に浴びせられる。

「だったら私……どうしたらいい?」

「知りたい?」

 栞の弄るような声に、七瀬は俯いたままこくりとうなずいた。

「じゃあ教えてあげる」

 ひどく残酷で歪んだ表情は、呪いに意識を奪われた時の生徒会長とよく似ていた。

「別にどうもしなくていい」
 はっとした表情で七瀬が顔を上げる。

 けれども七瀬の首に鎌を振り下ろすように、「その代わり、どうしたって許してあげないから」鬼かというほど凄惨な笑みを浮かべながら、栞はゆっくりと断罪を口にした。

「許す? 許して欲しいの?」

 自分で言っておきながらそれがさも面白いかのように栞は腹を抱えた。狂ってしまったかのような、甲高い笑い声が二人でいるには広すぎる廊下に響き渡る。

「……馬鹿言わないで」

 一転、今度は凄味を利かせた目で七瀬を睨みながら唸るように呟いた。

「どんな制裁がいいって、許されない罪を死ぬまであがない続ける様を上から眺めるのが一番いいに決まってるじゃない」

 俯いたままぐずり始めた七瀬を、栞は心底楽しげに見下ろした。

「ごめんなさい、ごめんなさい!」

 長い髪をだらりと垂らし、謝罪を口にしながら七瀬は両手を目に当て迷子の子どものように泣きじゃくっていた。

 今の七瀬には先ほどまであった覇気は欠片もなく、「か弱い女の子」そのものだった。七瀬はなおも鼻をすすりながら俯いていたが、やがて栞に顔を見られないように腕で顔を覆い隠したままくるり背を向けると、何も言わずに走って行ってしまった。

 ──無茶苦茶だ。

 遠ざかる後ろ姿を半ば遠いところから眺める他人事のように思いながら、栞はスイッチが切れてしまったように脱力すると力なく曲げた膝の上に両手を置いた。

 ──止まって。止まってよ!

 膝はみっともないくらいにぶるぶると震えていた。けれどいくら手で押さえてみたところで、どうにもならなかった。
 
 ──呪われてるのは、私も同じだ。
 
 一気に涙が溢れ、床に点々と滴り落ちた。
 
 悲しかった。

 生徒会長の苦しみが。七瀬の苦しみが。

 何より、妬みと憎しみに振り回され大切な人たちを切り裂いてしまう自分自身が本気で恐ろしかった。醜くて、汚くて、何もかもを飲みこんでしまうどす黒いものが自分の内側に渦巻くのを感じていた。

 こんな醜いものに塗れて生きるなら、いっそこのまま消えてしまいたい。本気でそう願った。呪いに蝕まれなお生きる生徒会長のようなことは、到底できそうになかった。

「お願い、誰か助けて……お願い」

 懇願する声はけれども弱々しく擦れ、喉から絞り出すだけで精いっぱいだった。栞はもはや立つことすら叶わなかった。ふらつく足取りでどん、と壁に身をもたれさせると壁沿いにずるずると身を落とし、ついには床にへたれこんでしまった。

「会長……滝上会長」

 いくら名を呼んでみたところで、愛しい人から手を差し伸べられるどころか姿すら現してはくれなかった。
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