オカルト研究会と龍の道

第5幕

 どれくらい走り続けただろうか。

 息を弾ませる優馬がふと前を見ると、それまで前に向かって飛び続けていた蝶が前進するのをやめ、ある一点を中心に円を描くように飛び始めた。優馬が追いついてみると、飛び回る蝶のすぐ下に七瀬がいた。

 すぐ背後には高い壁のようなものがそびえ立ち、七瀬は壁に体を沿わせるようにして横たわっている。

 蝶は七瀬の頭上に舞い降りると、それまで忙しなく動かしていた羽根を何度か開いては閉じ、やがて羽根を閉じたまま動かなくなった。途端に蝶は揺らぎ始め、先ほどの動きを巻き戻すような動きで元の写真へと戻り七瀬の傍らへ舞い落ちた。

 写真を拾い上げてみると、相変わらず微かな光を放っているおかげで優馬は七瀬の姿を何とか確認することができた。とはいえ、やはり視界はゼロに近い。

「七瀬! 七瀬!」

 優馬は額を伝う汗を拭うことも忘れたまま、すぐ側にひざまずいて七瀬に向かって呼びかけた。けれども七瀬のまぶたは閉じられたままで、伝い落ちた涙が頬を濡らしている。なおも呼びかけるも七瀬は微かに声をもらすだけで、自分の名を呼ばれていることを理解する様子はない。

「七瀬! 僕だよ、優馬だよ!」

「ごめんなさい……ごめんなさい」

 横たわる七瀬に殆ど覆い被さるような格好で繰り返し名前を呼ぶも、全く聞こえていないのか七瀬は苦しげに呟いただけでやはり呼びかけに応えようとはしない。

「七瀬!」

「お願い……もう許して」

「七瀬! 僕だよ! 優馬だよ。分かる?」

 七瀬はうわ言を止め、様子をうかがうように息をひそめた。

「……ゆう、ま」

「そうだよ。優馬だよ。ほらここだよ。すぐ目の前にいる」

 優馬は七瀬の手を掴み自分の方へと引き寄せた。七瀬はシャツに触れはしたものの、優馬によってやらされているだけで手付きに意思というものがまるで感じられない。

 ──そういえば鼻血。

 胸の辺りを指でなぞってみても、先ほどまであったはずのぬめりがすっかりなくなっている。けれども今の優馬にとってはシャツを濡らすのが汗だろうが鼻血だろうがどうでもよかった。例え口汚く罵られようと、七瀬が意識を取り戻してさえくれれば十分。そう思えるくらい、ただひたすらにここまで走ってきたのだ。

 七瀬が意識を取り戻せるのならいっそ鼻血でいいと思えた。むしろこの時のために鼻血が出るようになったのかもしれないとすら感じていた。

「ごめん。また鼻血が出たんだ」

「鼻血……優馬……」

 意識があるのかないのか、七瀬は力なく呟いた。

「優馬? ……優馬! あっ!」

 七瀬が勢いよく身を起こしたせいで、間近で様子をうかがっていた優馬は派手に頭をぶつけた。鈍い音とともに優馬は身をのけぞらせる。

「あたた……よかった。気が付いたみたいだね」

 ずきずきと痛む額に手を当てながら、優馬は苦笑いを浮かべた。

「優馬? ゆゆ……優馬なの?」

「そうだよ。暗くて見えないだろうけど」

 優馬が手を伸ばすと、七瀬は手探りさせていた両手で思い切り掴んだ。一体どれほどの力がこもっているのか、優馬の腕に痛いくらいの感触が返ってくる。

「優馬なんだよね? まつ……間違いないよね?」

「間違いないよ」

 普段は強気な七瀬が今回ばかりは迷子のようになっているのが、優馬にはなんだかおかしかった。

「どこなのここ? 何でこんなに暗いの?」

 優馬の手首辺りを握る七瀬の手は細かく震えている。それだけでなく、声もまた震え、時折言葉がつかえている。

「ここは洞窟の一番奥だよ」

「もしかして龍神に連れて来られたの?」

 優馬は反射的に首を振ったが、意味がないことにすぐに気がつく。

「その話、違うと思う。僕はここに来る途中で結構危ない目に遭ったんだ。けど奴らの正体は、やっぱり化け物だったよ」

 暗闇の中、自分の表情が和らいでいくのを感じながら優馬は続けた。

「あんな禍々しいものが、例え呪いや祟りであったとしても神様の力であるはずがないよ。僕にはもっと別の何かだとしか思えない」

「じゃあ、私が見てたのも」

「七瀬も怖い目に遭ったんだね?」

「うん。怖かった」

 七瀬がどんな目に遭ったかは分からない。ただ、自分の腕を掴む七瀬の手がずっと震え続けていることが、恐怖の度合いを想像させた。

「まあ、危険な状況には変わりなさそうだけど」

 七瀬からはすぐには反応が返ってはこなかった。暗闇越しに、何度か呼吸を繰り返していることだけが微かに伝わってくる。

「七瀬、それよりも元の世界に戻ろう」

「だめ。私、戻れない」

「七瀬? 何で」

 七瀬はいやいやをする子どものように首を振った。優馬は、目では捉えることができないものの空気の流れで辛うじて察する。

「だって、今さらどんな顔して戻ればいいか分からない。私のせいで会長は呪いにかかって、栞のこともも不幸にした。優馬だって苦しめた」

 そんなこと、と言いかけて優馬は思いとどまった。今の七瀬には、下手な手加減をしたところで何も届かない。そう思った。

 ふー、と息を吐きながら最善の言葉を考える。七瀬を動かす言葉とは、どんなものなのか。

「はっきり言っちゃえば、その通りだよね」

 暗闇の向こうで七瀬が息を飲むのを、優馬は確かに感じた。その上で、さらにたたみ掛けていく。

「だけどさ、オカ研のことは七瀬とは何の関係ないよ。どのみちあのまま何もしなかったらオカ研は廃部だったんだ。だから、あそこで七瀬が賭けに出てくれたのは、きっと正しかったんだと思う」

 むしろこっちが大事なんだけど、と前置きして優馬は続けた。

「七瀬は僕に大事なことを思い出させてくれた。すごく感謝してる。だから、今もこうやって七瀬を迎えに来れた。自分でも驚いてるくらいだよ」

 言ってしまってから、すごく恥ずかしいことを口にしたと気づく。とはいえ、出てしまった言葉を今さら引っ込めるわけにもいかず、優馬は暗闇の中で押し黙った。

「そんなこと言われても、どうしたらいいか分かんないよ」

 とまどいを隠せないでいる七瀬はやや時間をおいてから答え、鼻をすすった。

 その時、遠くから何者かの声が聞こえた。

「───」

「───」

 いくつもの声が聞こえてはくる。が、何を言っているのかまでは分からない。
優馬が聞き耳を立ててみると、ようやく部分的な言葉のやり取りが聞こえてくる。

「よう……眠り……ちた……のに……余計……を」
「……少し……いう……邪魔が……わ」

 やはり正確な言葉の意味まではくみ取れない。それでも、強い不満が滲んでいることだけははっきりと伝わってくる。

「大丈夫か。しっかりしろ!」

 そんな中、微かにではあるが聞き取れる声が優馬の耳に入ってくる。誰が、と思って見ても姿を見て取ることはできない。ただ優馬には聞き覚えがあった。一体いつかと思い返すと、光を浴びた直後だったと思いだす。

「私、ここにいるあいだずっとあの声に呼ばれてた気がする」

「七瀬を背負って逃げた時も後ろから呼びかけられてたよ」
「そうなの?」

「うん。ただまあ七瀬は知らないと思うよ。あの時気を失ってたから」

 七瀬は優馬が言い終えるよりも早く両脚を起こすと、前のめりに身を乗り出した。

「お父さん? もしかしてお父さんなの?」

「────」

 七瀬の問いかけに対して、辛うじて返事らしきものが聞こえてくる。が、先ほどまでの力強さはなく、果てしなく濃い闇に埋もれかかっている。

 一方で優馬は焦りを感じ始めていた。

 いくら耳を澄ませてみても聞きたい声は聞き取れず、自分たちのおかれた状況だけを思い知らされた。何者かは分からない気配だけが暗闇の向こうに息づいていた。しかも一つばかりではない。姿が見えないだけで、いくつもの気配がひしめき、息をひそめている。

 背筋を駆けあがってくる寒気は、光を浴びたあの時と変わらない。その中に混じり、七瀬を勇気づけようとする何者かがいる。

「ねえ答えて。お父さんなんでしょ? 私よ、七瀬よ。あなたの、滝上正明の娘の!」

「……」

 けれども声はさらに小さくなり、ぎりぎり声が聞こえるだけで内容を聞き取ることはできない。

 そうしているあいだにも、優馬は部屋の壁が両側から押し迫って来るような重苦しさを感じていた。追い詰められている気がしてならないのだ。闇の向こうから、何者かが自分とのあいだを音もなく詰めてくるのが十分に伝わってくる。竹やぶを挟んで虎と対峙しているかのようだった。

けれども一体どこへ逃げろと言うのか。優馬はここへ来て進退極まっていた。

「七瀬」

「分かってる!」

 七瀬は強い勢いで言い放つと、すぐに小さな声で「ごめん」と呟いた。

「私今まで優馬に散々我がまま言った。もうどんだけ謝っても足りないって、嫌われても仕方ないって思ってる。だけど!」

 写真からの光を受けた七瀬の瞳が、暗闇の中に微かに浮かびあがっていた。そこに込められた想いに圧され、優馬はかけるべき言葉を見失う。

「やっとお父さんに聞けるかも知れないの。私が生まれることについてどう思ってたのか、どうしても確かめたいの。お願い」

 感情の昂ぶりを全て振り払った、静かな言葉だった。利用するでもなく甘えるでもなく、無理矢理でもなければ押し付けでもなかった。全てを埋め尽くすほどの漆黒の闇の中で、微かに揺れる瞳だけが平坦な言葉に秘められたものを伝えていた。

 けれども優馬は即答しようとしなかった。今までの優馬なら曖昧に許してしまうに違いない。だが今は誤魔化しが効く状況ではない。

「七瀬……聞いて欲しいことがあるんだ」

「でも」

「聞いて!」

 七瀬が息を飲むのが伝わってきた。だが、今だけは七瀬に対して譲ろうという気は毛頭なかった。それだけの状況であると自覚していた。
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