オカルト研究会と龍の道

幕間1 姫野栞

 栞は壁際に直立したまま目の前の床に視線を落としていた。廊下に漂う空気は鉛のようで、ともすれば自身の脚がずぶずぶと飲みこまれて行くような気さえしていた。

 一部の隙さえないくらい丁寧に磨き抜かれた床は、備え付けの椅子や壁を淡く写しだしている。けれども白すぎる色合いのせいかどこかよそよそしく、ただでさえ沈痛な栞の心境をより一層重たげなものにさせていた。

 救急車で町の中央病院へと運ばれた生徒会長はそのまま集中治療室へ入れられていた。事態は極めて深刻だった。状況を説明した医師たちの表情は一様に硬く、暗かった。

 壁に沿って並べられた長椅子には生徒会長の父、祖父母、それに何人かの親戚たちが岩のように待機していた。彼らは互いに一言も話さないどころか身じろぎの一つもなく、いっそ動くことを忘れてしまったかのようだった。

 それでも、手を組むでもなく合掌するでもなくただひたすらに座り心地がいいとは言えない長椅子に腰かけたままでいるというあり様そのものが、祈りと言い表されるにふさわしい何かを成していることに違いはなかった。

 栞は彼らから少しだけ離れた場所で付き添いの教師たちとともに立っていた。栞は病院側の対応によって室内用のトレーナーに着替え、身体に付着した血はきれいに拭き取られている。

 栞は救急車から降りた自分に向けられた病院スタッフたちの視線を思い出していた。
 
 少なくともまっとうな人間に向けられるものではなかった。ほんのわずかなあいだだけではあったが、恐れと嫌悪感とが剥き出しになっていた。

 けれども、実際に恐ろしい目に遭っているのは自分ではなく生徒会長だった。他人の目を借りることで、生徒会長に巣食っているものがどのような存在なのかを間接的にうかがい知ることができた。
 
 栞は生徒会長が闘う相手の厄介さを思いながら目を閉じ、一心に願い祈った。生徒会長が戻ってきてくれるならそれでいい。願いを叶えてさえくれるのであれば理由も相手も何でもよかった。

 ふと念仏のような何かを聞いた気がして辺りを見回すと、正明の父の口が小さく動いていた。何を言っているかは分からないものの、深刻極まりない表情は懺悔でもしているかのようだった。声は次第に大きくなり、ついには叫び声に変わっていた。

「もう充分だろう! いい加減にしてくれ! 正樹が一体何をした!」

 正明の父は血走った目を見開いて立ちあがり、握りしめた拳を振り上げた。けれども、異常を見てとった親戚たちが素早く駆け寄ると半ば力づくで椅子に下ろしてしまった。

「わきまえろ」

 生徒会長の祖父らしき老人から諭された生徒会長の父はなおも肩で荒く息をしながら、なおも廊下の壁を睨み付けていた。

 と、その時突然集中治療室の扉が開かれた。看護師が慌てた様子で治療室を出ると、どれほども経たないうちに数人の医師たちとともに再び治療室へと戻っていく。
 
 待機している者たちに異様なほどの緊張が走った。
 
 ──いよいよか。
 
 あえて口に出すまでもなく、誰もが同じことを考えていることが容易に見て取れた。さらに数分後、扉を開けて出てきた一人の医師を親戚たちがわっと取り囲んだ。

 けれども医師はすぐに語り出そうとはしなかった。何をどう話せばいいのか理解が追いついていないのは明らかだった。が、ふうと息を吐き出すと硬い面持ちを崩さないまま一語一句を噛みしめるようにゆっくりと話し始めた。

「患者の意識が回復しました。血圧、心拍数ともに正常値へ向かって上昇中です。体温はほぼ平常まで回復しました」

 そこまで言いかけたところで、医師は押し黙った。親戚たちはまばたきすら忘れ、全てを見逃すまいとばかりに目を見開いている。

「実は我々もまだ信じられないのですが」

 話の途中で医師の腕をがし、と掴んだ者がいた。生徒会長の父親だった。すがるように二の腕を掴む手は細かく震えている。言葉に言いだそうとはするものの、頬が震えてしまっているせいで上手く言葉が出てこない。

 ──どうなんだ? 助かったのか?

 今にも飛び出しそうな両目が雄弁に語っていた。

「山は越えたと見ていいでしょう。我々も上手く説明が付かないのですが……。全く、奇跡としかいいようがありません」

 言葉の後半部分はけれども廊下中に響き渡る歓声にかき消されてしまった。
 
 生徒会長の父は目の前にいる医師を押しのけると、礼の一言も言わないまま部屋の中へ入ってしまった。それを追うように、他の親戚たちも後に続いて行く。扉の向こうから、看護師たちの慌てた声が漏れてくるも、彼らが退散する気配はない。

 結局、ものの数秒も経たないうちに、廊下は先ほどの医師と教師と栞だけになっていた。

「あの、先生」

 栞の感情を抑えた声色に、医師はようやく表情を和らげた。

「大丈夫です。もう心配はいらないでしょう。後は体調が回復するのを待つだけです。と言ってもいくつか検査などがありますから、すぐ退院とまでは行きませんが」

 医師の言葉に、教師と栞は顔を見合わせた。危機は去った。そのことにお互いようやく安堵の息を吐くことができた。栞は安心ついでに力が抜けてしまい、くたっと座りこんでしまった。

「すみません。安心したら力が抜けてしまって」

 医師と教師に支えられて栞が何とか立ちあがったところに、生徒会長の父が戻って来た。後ろには親戚たちを引き連れている。

 どの顔も先ほどまでとは打って変わって穏やか表情へと変わっていた。栞からすれば、外見が同じまま中身が入れ替ったかのようで、薄気味悪いものがあった。

「姫野さんでしたね」

「……は、はいっ!」

 話しかけたのは生徒会長の父親である。まさか自分に用があるなどとは思いもよらず、栞は自分の名を呼ばれたことに一拍遅れて気が付いた。

「正樹に……息子に会ってやってください。あなたに話があるとのことです」

「わ、私ですか?」

 部外者に過ぎない自分などがしゃしゃり出ていいものだろうか。生徒会長に呼ばれたという喜びから一瞬遅れ、遠慮がちな疑問が湧いた。けれども、断るのもどうかという思いと、少しでも早く会いたいという本音から導かれる結論は同じだった。

 改めて医師に確認してみれば、集中治療室に入るには衣服や消毒などの準備が必要だった。栞は生徒会長の父へ深く一礼し、入室準備のためにその場を後にした。


「滝上会長」

 支給された白衣姿の栞がベッドの脇から恐る恐る声をかけると、

「そんなに心配しなくても聞こえている」

 すでに酸素マスクを外してしまっている生徒会長から返ってきた返事はそっけないと言えば余りにもそっけなかった。だがそれこそが栞にとっては何よりも求めていたことだった。間違いなくいつも通りの生徒会長がそこにいた。

 輸血こそしてはいるものの危機を知らせるようなものは何もなく、学校での顛末が嘘のようだった。無愛想に横たわる手を握ってみると、先ほどとは違う確かな温もりを感じられた。

「よかった」

 栞はまだ力を入れられないでいる生徒会長の手を両手で何度も撫でた。自然と涙が溢れてくるのを、抑えることができなかった。

 生徒会長は身を起こそうとしたものの早々に諦めると目を閉じ、再び身を横たえた。失われた体力が戻るには、まだ時間が必要だった。

「栞」

「……は、はい!」

「どうした、ぼうっとして」

「い、いえ。何でもありません」

 栞は顔が紅潮するのを感じて俯いた。生徒会長が初めて自分を名前で呼んでくれたことが嬉しくもあり、また恥ずかしくもあった。

「まあいい。……オカルト研についてだが、廃部はなしだ」

「オカルト研……ですか?」

 何故この状況でオカルト研究会なのか。予想外の話題に栞は面食らった。

「今この町に龍神がいる」

「え?」

「言葉の通りだ。伝説の龍神が現れたのだ」

 栞は何と言葉を返していいか分からなかった。立て続けに分からないことを言う生徒会長の意図を読み切れないでいた。

「必ずしも龍神ではないかも知れない。だが龍神に近い何かであることは間違いない」

「あの、でも、どうやって」

「俺の身体からきれいさっぱり呪いが消えた」

 生徒会長は腕を上げてするものの、指先を動かすことしかできなかった。腕から力を抜き、息を整えながら次の言葉を探した。

「こんなことをできるのは龍神くらいしかいない。……どこにいるかは俺にも分からん。だが……いることは確かだ」

 生徒会長は一旦息を整えた。呪いと出血により、一気に言い切るだけの力は残されていない。

「俺が龍神をこの目で確かめるべきだ……だがそれは無理だ」

 生徒会長は天井を見つめたまま長く息を吐き出した。

「いずれにしろ、賭けは奴らの勝ちだ。研究会の存続を認める」

 生徒会長の表情には悔しさも苛立ちもなく、むしろどこか晴れやかでさえあった。

「栞」

 まだ何かあるのだろうか。栞は生徒会長の目を見つめた。

「俺の側にいてくれ」

 何の前置きもない、実に生徒会長らしい一言だった。

 栞は呆気に取られ、目を瞬いた。

 が、言葉の意味するところを解すると一転、表情をほころばせた。

「はい!」

 上手い返事や言い回しは、全く浮かんでこなかった。代わりに、栞は生徒会長の言葉に対して全力で肯定して見せた。この時を一生忘れまいとするかのように、何度も、何度もうなずきながら。

「そうか……ありがとう」

 栞の返事を確かめた生徒会長は、安心したからなのかスイッチが切れたように眠りの中へと落ちていった。

 栞は、静かに寝息をたてる生徒会長を飽きることなく見つめていた。苦しみから解放された、どこまでも穏やかな寝顔だった。

 オカルト研究会との賭けなど、どうでもよかった。七瀬とのことさえ、どうでもよくなっていた。今の栞にとっては、何の価値もないことだった。こうして生徒会長と共にいられるだけで十分だった。自分だけの何物にも代えがたい勝利を、栞はかみしめていた。
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