オカルト研究会と龍の道
 それからどれくらいの時間が経ったのか。やがて光は風船が萎むように次第に弱まり、ついには何事もなかったかのように消え去った。

 光が消えるまでに要した時間が数秒なのか数分なのか、それとももっとずっと長い時間だったのか、そもそもあの光は何だったのか。今いるこの場所はさっきいたのと同じ場所なのか。優馬には全く分からなかった。ただ、空の明るさが大差ないことを考える
 
 と、ごく短い時間だろうというところまでは推測することができた。
 
 空には速い流れの中にいくつもの雲が渦巻き、互いに入り乱れながら流れていく。濃淡交え幾重にも折り重なった色合いが何とも不気味で、優馬は寒いわけでもないのに体をすくませた。

「ねぇ優馬、今の何だったの?」

 七瀬はくるりUターンして、優馬のところへ駆け戻ってくる。

「分からない。分から……ないけど」

 優馬は青ざめた顔にびっしりと汗を滲ませながら、傍目から見ても分かるくらいに体を震わせていた。顎が震えるせいで言葉もうまく出てこない。

「そうね。とにかく早く戻り」

七瀬は最後まで言い終えられないうちに瞳を震わせ、顔を引きつらせた。

「やだ、何? 何?」

「へ?」

 優馬は七瀬のただならぬ様子に七瀬の顔を凝視した。が、七瀬の目は既に優馬の顔を捉えてはいなかった。

「うそ、やだ……何これ!」

 それどころか、すぐ目の前にいる優馬とのことなどそっちのけで、両手で耳を塞ぎながらその場にしゃがみこんでしまう。

「七瀬、しっかりしてよ」

「やだ、来ないで……いや! いやぁ!」

 七瀬の耳に優馬の声はもはや届いていなかった。駄々をこねるように激しく首を振ると突然電気が切れたように両手をだらりと下げ、七瀬の体は崩れ落ちるように傾いていく。

 地面に倒れこむ寸でのところで優馬が受け止めたものの、七瀬の頭は力なく倒れこんだ。目はあらぬ方向を向いたまま動かず、半開きになったままの口からは一筋の唾液が溢れ白い首筋を伝い落ちた。

「冗談だろ? しっかりしてよ。七瀬、七瀬!」

 呼びかける声は、けれども七瀬には届かないまま虚しく空へと散って行く。優馬は頭の中をミキサーでかき混ぜられるようだった。全身の毛孔という毛孔から汗が噴き出してくるのをどうすることもできない。

 優馬は不意に抑えつけられるような重たさを感じた。と同時に、自分の意志とは無関係に背中の毛が総毛立つのを感じた。

 例えるなら、誰もが寝静まった深夜に不用意に見てしまったホラー映画に似ていた。ただ似ているというだけで、タチの悪さで言えば比較にならなかった。どれくらい違うかと言えば、テレビ画面のこちら側とあちら側くらいには違っていた。

 ──いる! 

 絶対に頭上を見上げてはいけない。今自分たちの上には、見たら最後、とても正気ではいられないような何かがいる。

 お化け、などという生易しいものではない。しかも一つや二つどころではない。僅かな空間を挟んで対峙しているのは、この世の者とは思えない恐ろしい何か。

「人だ」
「二人もいるぞ」
「しかも、若い」
「久々よのう」
「さぞかし美味かろうなあ」
「美味かろうよ」
「だが簡単には手が出せぬ」
「光さえなければのう」
「忌々しいぞ」

 そんな声が、耳を介さず脳内へ直接響いてくる。
 
 ──食われる!

 抽象的にでも何でもなく、優馬は直感した。脳裏には、はらわたを食い荒らされる自分の姿がありありと浮かんでいた。荒唐無稽な妄想でも何でもなく、一瞬先の未来であったとしても少しもおかしいとは思わなかった。これ以上の不思議があろうかという状況で、そんなことはもはや何の不思議でもなかった。

 優馬は奥歯をガチガチと鳴らしながら、七瀬が怯えていた意味を理解した。いっそ気を失っている七瀬が羨ましかった。

 が、このままぐずぐずしていたら理性の全てをはぎ取られ、むき出しになった感情を飲み込まれてしまうに違いない。こんなところにいつまでもいたら、正気でいられるわけがない。それは何としても避けねばならない。

「たかが人間」の自分が決して踏み込んではいけないところへうかつにも足を踏み入れてしまった。その結果、今やほんのちょっとしたきっかけで自らの命を奪われかねない状況に陥っている。ここで二人とも命を失ったとしても、少しもおかしくはない。

 優馬は立ち上がろうとしたが、既に体の感覚がおかしかった。まるで両足が言うことを聞いてくれない。体の平衡すら保てず無様につまづき、地面へ崩れ落ちた。優馬は、膝が笑うとはどういうことかを直感的に理解した。

「大丈夫だ!」

 意識が恐怖と混乱で朦朧とする中、優馬は自分を強く鼓舞する声を聞いた。声は随分と遠くから聞こえた気がした。だが不思議なほど力が湧いた。全身の震えが嘘のように収まり、優馬は再び立ち上がる。その様はヘタレと呼ばれる優馬にはすこぶる似合わない、力強いものだった。一体何故そんなことが起きたのか。けれども、今は何よりもまずこの絶望的な状況から抜け出したかった。

 ──走るんだ!

 今は何が何でも走らねば。優馬は両手で自らの頬を強く二度叩くと、すぐ隣に倒れ込んでいる七瀬の腕を掴んだ。七瀬は相変わらず気を失ったままで、血の気の引いた青白い顔からはまるで生気が感じられない。

 優馬は思わずたじろいだが、一度だけ大きくかぶりを振るとあとはもう迷わなかった。七瀬の体を背負い込み、反発するバネのような勢いで一歩を踏み出す。

 自分の行動が半ば信じられない思いだった。優馬は、らしからぬ自分をどこか遠くから眺めるような気分でいた。

 いざ背負ってみると、七瀬の体は優馬が思っていたよりもずっと華奢だった。普段のがさつな言動とは裏腹な、繊細な一面だった。それでも、力と意思の抜け切った体は優馬の肩と腕とに容赦なく食い込んでくる。いくら女子とはいえ、高校生の体が軽いわけがなかった。

 体中から悲鳴が上がるのを、歯を食いしばって耐えた。優馬は泣き出したくなる気持ちをこらえ顔を上げ、藪の道を戻り始めた。

 七瀬に気を失わせたうなり声は、止むどころか一層勢いを増しながら優馬の脳に響いている。ぐずぐずしていたら、命はない。

 このまま道を進んでいけばいいのか。果たして自分たちは助かるのか。

 まるで分からなかった。ただ、後ろに戻ることはおろか振り向くことさえ今の自分に許されないことだけは確かだった。だったらとにかく進むしかない。何の確証もなかったが、それだけが優馬にできる全てだった。

 危機的状況を受け入れ、覚悟した。

「大丈夫だ!」

 優馬は再び声を聞いた。今度はさらに遠くから聞こえた気がした。
優馬は地面を見つめたまま、ひたすらに一歩ずつ歩みを進めていた。自分が元来た道を正しく辿っているかどうかすら分からなかった。もしかしたら分かれ道があったかもしれない。

 けれども、そんなことに気づくことすら今の優馬には難しかった。

 とにかく、次の一歩の踏み出し先を考える。あとは、水中から新鮮な空気を求めるかのように顔を上げては、木々の隙間からわずかにのぞく空の明るさを確かめた。あの空が続く先へ行けばきっと助かる。それだけを信じ、ひたすらに前へ向かって進み続けた。

 その後どれくらいの時間が経ったのだろうか、空が直接見渡せる場所まで出たところでようやく一息ついてみると、優馬は神社の駐車場脇にいた。駐車場からは境内までは若干の高低差があり、境内の様子を見ることはできない。
 
 優馬の目の前に広がるのは、確かに今日通り抜けてきたばかりの光景に違いなかった。空を見上げてみても灰色の雲が退屈そうに広がるばかりで、もはや不安を抱かせるような雰囲気はどこにもない。

 目に映る光景は普段通りで、つい先ほど自分たちの身に起こったことはまるで夢か幻、そうでなければ悪い冗談のようだった。

 けれども今の優馬に感傷に浸る余裕などない。

「七瀬!」

 すぐ側にあった大木の根元に七瀬の身を預けると、優馬は素早く身を翻して目の前に跪いて呼びかけた。だが七瀬は呼びかけに答える様子もなく、相変わらずぐったりとしている。それでも頬には赤みが戻りつつあり、手を口の前にかざしてみると暖かい息が漏れ、それに合わせて肩が小さく上下に揺れるのを確かることができた。

「よかった、生きてる」

 優馬は心からの安堵に目を瞑り、体に張りつめていた緊張全てを出しきるように大きく息を吐きだした。すると今までのことが嘘だったかのように一気に力が抜けてしまい、立ち上がることすらできずにそのまま七瀬の隣にへたりこんでしまっていた。

 森を抜け出してみても、相変わらず頭の中は混乱したままだった。今起こったことを思い返そうにも、どこをどう移動してここまで辿りついたのか、全く見当が付かなかった。

 ――僕たちはどこから出てきたんだろう?

 優馬は自分が元来たであろう辺りを振り向き目を凝らした。だが優馬は空を見上げ、諦め混じりに呟いただけだった。昼なお暗い鎮守の森がある以外は、何も見当たらない。

 優馬は、ふと自分の姿に目をやったところで素っ頓狂な声を上げた。優馬のワイシャツは、胸元から腹の辺りまでべっとり赤黒く染まっていた。それどころか転んだせいで泥と血とが入り混じり、白地のシャツは跡形もなく汚れきっている。

 手を当ててみると、鼻に詰めたはずのティッシュは外れてしまっていた。止まりきらない血はなおも頬を伝い首筋を伝い、胸元へと滑りこんでいる。

 ここまで気にも留めていなかった。まさかティッシュが外れて鼻血がだだ漏れになっているなど、思いもよらなかった。それどころではなかったのだ。とは言え、この格好のままでいるのもいかがなものか。

 優馬が思案顔になったところへ、「なんだあいつ! ヤベぇ!」

 驚きと嘲りが混ざり合ったような声があたりに木霊した。

 優馬が顔を上げると、観光客だろうか五メートル程の距離を置いたところに若者の男女五人連れがいた。面白がる者、険しい顔の者、嫌がる者。反応は様々であったが、歓迎されていないことだけは確かだった。

「いやぁ、何あれ、人殺し!」

 突如叫び声を上げる女性の指は、震えながらも優馬を指差している。

 優馬は自分の姿を人に見られることの危うさを今さらながら理解した。が、手遅れだった。

「あ、その、これは、違っ」

「いやぁーーーー人殺しっ! 助けてっ、助けてぇー!」

 優馬は必死に弁明しようとはしたものの、境内に響き渡るほどの悲鳴に虚しくかき消された。

 今度は自分がやられるとばかりの訴えは一向に止まらず、ほどなくして神社の関係者たちが何事かと集まってくる。誤解を弁明する機会すら与えられないまま、優馬は完全に逃げ道を塞がれてしまっていた。
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