過去への希望
生と死と感情
 晴れた初夏。この見上げた空には、見渡す限りの青と白の色鮮やかな色彩があった。その白の塊は青色の中をまるで、水に浮かぶアメンボのように形を変えず、ゆらゆらと動いていく。すうっと空気を吸ってみた。いつも外に出て吸う空気より少し重みを感じた。その重みは説明しづらいが、何か胃の中にズンとのしかかるようなものだ。目に見える景色はいつもと同じ日常の景色だ。
隣の家、道路脇にあるほとんど意味をなさない信号、使われもしないのに、歩道に佇む木製のベンチ、今までそのベンチに座った人を見たことがない。のどかなこの日常に思い切り切り口を入れた出来事といえば、あの時ぐらいだろう。
 そのあの時に何が起きたのか今誰かに説明することは、非常に簡単だ。いや簡単すぎて興味を持たれないことに違いない。誰にでも起こりうる出来事であり、逆にないという方が不自然かもしれない。大抵の人はその出来事が起こっても、一ヶ月もすれば記憶もだんだんと薄れていく時期になる。そして、徐々に徐々にその時の感情を表現できなくなっていく。感情というのは、僕の持論を出して言わせれば、一時の感情にすぎないものがほとんどだ。すれ違いざまに肩と肩がぶつかり、怒鳴り散らす人、注文したものと違うものが届き激昂する人、恋人に浮気をされキレる人、はたまた喜びもそうだ。マラソン大会で一位になったこと。テストで100点を取ったこと。片思いの人に告白し見事成功したこと。事例を出せばキリがないが、とにかく多くの場面で人々は感情を揺れ動かしている。まるで、揺れるのを義務としている時間を刻むための振り子時計や、音楽の要であるリズムを担い責任感を感じている小さなメトロノームのように。さらに目の前をよく見てみた。やはり何も変わらない毎日だ。僕がこの感情を抱いていることを除いては。この感情はその出来事が起これば、誰もが抱く感情だ。なかなかこの感情が生まれないという人はいないはずだ。そう、悲しみの感情である。近くにいる人が呼吸をしなくなったのだ。外見だけ見れば、全く変わらない。毎日を彩るいつもと変わらない日常のように。しかし、生と死という大きな境界線を隔てて見れば、大きく変わったのだ。呼吸をせず意識がない。そして体温もない。だんだんと精巧に作られた人形のようになっていく。僕はその出来事があってからの1年後の世界に今生きている。そんな悲しみが起こったというのに死というものが何なのか分からずに。ましてや生きていることがどういうことなのかすらよく分かっていない。
今呼吸をしないその人は、今の僕にどんな言葉をかけるだろうか。どんな態度で接するだろうか。どんな気持ちなのだろうか。考えれば考えるほど考えてしまう。そんな感情を抱いている毎日である。ふと、誰かから非常に聞き取りやすい声で僕に呼びかけた。
「おーい!何やってんだ!一緒に飯食うぞー!みんな集まってんだから、早くしろよ〜!」
なかなか威勢のいい声だ。言われるがまま僕は夕食を共にするため、その場を後にした。
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