溺甘上司と恋人契約!?~御曹司の罠にまんまとハマりました~
少しずつ、人影に近づく。
月明かりの下でも、振り返った彼が均整のとれた顔だちをしていることがわかる。ただし、その表情は虚ろだ。
今日オフィスで見たときはシャンと伸びていた背筋が、芯を抜かれたように丸まっている。
何も映さない空虚な目には見覚えがあった。脳裏に、鏡の中の青白い顔がよみがえる。
東京支社のトップ営業マンである瀬戸生吹(せと いぶき)がそんな顔をしていること自体は、意外としか言いようがないけれど。
「わ、私も、一か月前、死にたいと思ってました」
入社して六年目だけど、彼とはほとんど話したことがない。
オフィスではチームがずっと別で会話する機会自体が少なかったし、飲み会では彼は常に女性に囲まれていて遠い存在だった。
瀬戸生吹はルックスも業績も、おまけに人当たりまで好いから、隙あらばお近づきになりたいという女性社員が多く、敢えて私が近づく必要性もなかった。
――光希(みつき)ちゃんは安定してていいよねぇ。八年も付き合ってるなら、そろそろ結婚でしょ?
給湯室でため息をついていた先輩の顔が思い出され、喉の奥が圧迫される。
……結婚、なんて。
「もう全部が嫌になって、生きてることに意味なんかないって、思ってた」
今でもまだ、頭をかすめることがある。
――死んでしまいたい。