キャラメルと月のクラゲ
第1話 「深海の人魚姫は、今日も泡になりたいと願う」
 その扉を開けると、そこは深海に沈んだ神殿のようだった。
太陽の光すら薄らとしか届かない都会の深い底で、ショーウィンドウの水槽を透過してきた西日がクラゲを満月のように、オレンジに輝かせていた。
光が海底へと伸びたその先で、キャラメル色の髪をした女の子がオレンジ色の夕陽を浴びている。
ゆらゆらと揺れる水面の反射が水槽に囲まれた部屋中にあふれていた。
僕はそっと彼女が眠るテーブルに近付く。
———彼女は、泣いていた。
キャラメルが散らばったテーブルに倒れ込むように眠る彼女の口元は、薄いピンク色の唇が何かをつぶやくようにかすかに動いていた。
それがまるで餌付けされている魚のように見えて、僕はテーブルのキャラメルをその唇に差し入れた。

 その日は、朝からツイてなかった。
いつものように6時に起きて、ペットのミズクラゲに餌をやろうと黒縁メガネをかけて見ると、水槽の中で死んでいた。
水面に力なく浮かんでいる彼らを僕はただ、見つめているしかなかった。
餌やりも、水温も、水質も、水流ポンプの吸い込み口にも完璧なまでに気を配っていたのに、水槽という小さな世界が全てのミズクラゲ達は動かなくなっていた。
何が原因なのか見当も付かず、とりあえずマンションの庭にささやかな墓を作らせてもらった。
人目に付かない隅に、目立たないようにひっそりと。
それからいつものように大学へ行く支度を始める。
あくまで、いつものように。
ペットが死んだのだから泣いてあげられればよかったのだけれど、それだけの涙を僕は持ち合わせていなかったみたいだ。
ふと時計を見るといつもの出かける時間を過ぎていた。
朝食を取る余裕もなく、僕は最寄りの駅へと自転車を走らせる。
駅までは10分程度、そこから電車を乗り継いで大学へと向かう。
大学に程近い駅では友人が待っているはずだった。

***

 その日は、朝から最高の気分だった。
朝6時。
いつもと同じ時間。
けれど、目覚めるとベッドで隣に眠っているのは、私の大好きなヒト。
やっとの思いで結ばれた朝、この世界で一番幸せなのは私なんだと叫んでしまえるくらい気持ちが高まっていた。
勢いよく開けたカーテンから朝日が部屋へと入り込む。
その光から彼は逃げるように寝返りを打つ。
眩《まぶ》しそうに歪《ゆが》めた瞼《まぶた》にキスをする。
「朝ご飯作るから待っててね」
まるで今までずっと一緒に住んでいたような一日の始まり。
こんな日が、いつまでも続いてほしいと私は願う。

スクランブルエッグと少しのサラダ。牛乳たっぷりの甘いシリアルを彼は食べる。
私は小さなカップのヨーグルトを食べながら、目の前にある朝食をあっという間に食べてしまう彼を見ている。
そんな、幸せ。

私は部屋から駅までの道のりの間もずっと彼の腕にしがみついて離れなかった。
一分でも一秒でもくっついていたい。
彼の体温を感じていたい。
ずっとつながっていたい———

電車の中で誰に見られても平気だった。
だって、この世界で一番幸せなのは私。
みんなから祝福されたくて見せつけているのだから。
私一人が彼に愛されているという真実。
ホームに降り立った私達は改札へと向かいながら何度もキスをした。
その度に、私の中の空っぽの器が愛で満たされていく。
「これでもう、さみしくなんかない―――」

***
< 1 / 49 >

この作品をシェア

pagetop