キャラメルと月のクラゲ
次の日の月曜日。
振替休日の水族館はヒトであふれ返っていた。
私が水族館のチケット売場の前で待ち始めてそろそろ30分が経とうとしている。
私を待たせるなんていい度胸だ。
いつも男の子とデートする時は待ち合わせの時間ちょうどにしか行かない。
今日もそのつもりで向かっていたら彼から、
「電車を乗り間違えたので遅れます」
と仕事みたいなメッセージが届いた。
「あり得ない」
こんなことなら現地で待ち合わせなんてしないでお店から一緒に来ればよかった。
昨日、ミオ先輩に手当てをしてもらってから私はミオ先輩に見守られながら彼に謝った。
「はい、それじゃ明日二人で水族館にいってらっしゃい」
と半《なか》ば強制的に私と椋木くんは水族館に行くことになってしまった。
そして彼は遅刻。
「ほんと、あり得ない」
もう帰ってやろうかと思った頃、彼は私の前まで小走りでやってきた。
「鹿山さん、ごめん。慣れてなくて反対側の電車に乗っちゃって」
「許さない」
私は怒った顔を作って頬を少し膨らます。
「でもこれでおあいこね」
「………え? あ、そうだね」
彼は驚いたけど笑顔になった。
それにつられて私も笑った。
「さ、椋木くん。遅刻してきたんだから今日はいっぱいわがまま聞いてもらうからね」
その言葉に彼は少し嫌そうに笑って、
「お手柔らかにお願いします」
と言った。


やっぱり蝦川ニナの写真はほんとうに素晴らしかった。
背景に添えられた極彩色の花々の写真やカラフルなライトに照らされたクラゲ達はどの水槽も美しく、これだけでも今日ここに来た甲斐《かい》があった。
そう思いながらスマホで何枚も写真を撮っている私を彼は後ろから見ていた。
「椋木くんも写真撮ったら? フラッシュつけなければいいみたいだし、来月のお勉強会の参考にしないと」
「うん。そうだね」
促されて彼はスマホを構《かま》えて水槽に近付く。
「椋木くん近すぎ」
私は動画でその様子を撮っていた。
「いやだってミズクラゲの全体を収めるにはこれくらいじゃないと」
写真を撮り終えて振り返った彼は私がずっと動画を撮っていることに気付いた。
「ちょっ! 盗撮はやめてください」
私のカメラから被写体が消えた。
「消しましょうね」
スマホが不意に取り上げられた。
「ちょっと取らないでよ」
「あ、やっぱり同じスマホだね。今の動画は消しておくから」
私の背後に回った彼が動画を削除する。
「はい。盗撮禁止」
「はーい」
受け取ったスマホで私は素直にライティングされたクラゲの動画を撮り始める。
彼は私の後ろに立ってそれを見ていた。
「ねえ、椋木くんってカノジョいるの?」
彼の気配が背中越しに伝わる。
「今はいないよ」
「今は?」
意外だった。
「半年くらい前に別れた」
ずっとカノジョがいないなんて言うと思ってた。
「ふーん。どんな子だったの?」
彼は一緒に仕事をしていてもほとんどプライベートのことを話さなかった。
「どんな子って、………何かキラキラしててカッコいい感じかな」
その言葉だけで私は彼の気持ちがわかってしまった。
「へえー、そうなんだ。———まだ好きなの?」
「え? そんなんじゃないよ。アイツ、今カレシいるし」
「そうなの?」
「別れてからそのヒトと付き合って、大学も辞めて4月から専門行くってさ」
私はカメラを止めて歩き出した彼の隣を歩く。
「一緒に大学入って、東京出てきたのに、結局ダメでさ」
美術館のように水槽が並ぶ薄暗い通路で熱帯魚が私達を見ていた。
「意外」
「ん? 何が?」
「私はてっきりミオ先輩のことが好きだと思ってた」
「な、何言ってんの!? そんなわけないじゃん!」
「ふーん」
あからさまに焦る彼を置き去りにして、私はヒトの流れを縫う魚のように歩いていく。


そこを抜けるとアクアラボと題された飼育のスペースがあり、飼育スタッフと成長段階に分けられたらクラゲが泳いでいた。
「ねえ、椋木くん。椋木くんが育ててコドモ達に見せてた水槽ってここの水槽と一緒?」
「うん。参考にさせてもらってる」
プラヌラ、ポリプ、ストロビラ、エフィラ、メテフィラ、稚クラゲ、成体クラゲ。
彼は飼育員のように一つ一つの小さなイキモノを説明してくれた。
「私が殺しちゃったエフィラだね………」
八本の足を器用に動かして泳ぐクラゲのエフィラ。
「ごめん。あの時は、言い過ぎた………」
水槽から目を移すと彼は今にも泣き出しそうな顔でそう言った。
「あのあと、エフィラ達に付いた破片を落として水槽に戻したら泳ぎ出したんだ」
「私、殺してなかった………?」
「うん。鹿山さんは何も悪くない。だから、ごめん。ひどい言い方して」
「ううん。あれは、私が悪かったから。ごめん」
「鹿山さんはもう謝らなくていいんだよ。もう何度も謝ってくれたから」
どことなくクセのある話し方。
そのせいか、会話を弾ませるのがちょっと下手で、目が合ってもすぐに外してしまう。
「うん、ありがとう。———次、行こっか」
そして歩き出すと彼は少し黙った。
私達の隙間をただよう空気に潮の匂いが混じる。
「椋木くん見て! ペンギン!」
小走りで私は吹き抜けのペンギンプールを見下ろせる手すりに飛び付いた。
「走ったら危ないよ」
彼はコドモに言い聞かせる口調で私の隣に立った。
「マゼランペンギンだって」
私達が見下ろした岩に立つ飼育員が餌をやっていた。
名前を呼びながら餌をあげたりあげなかったりしている。
「どうして餌をもらえない子がいるの?」
「もらえないんじゃなくてもう食べたんだよ。だからまだ食べていない子にだけ今はあげてるんだよ」
「へえー、さすが。でもよくわかるよね。私だったら見分け付かないな」
「腕に付けた輪っかで識別してるんだよ。だから鹿山さんでも覚えれば見分け付くよ」
「私、頭悪いから無理だよ」
「そんなことないよ。鹿山さん仕事覚えるの早いから結構いけると思う」
そんなふうに思われているとは思わなかった。
「何か今日は椋木くんの意外な部分がよく見付かるなー」
「え? そう?」
「ミオ先輩のこと好きじゃないって言ったり、元カノのことまだ好きだったり」
「だからそんなんじゃないって!」
「ふーん」
私は慌てる彼を残してペンギンプールを囲っているスロープを降りた。


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